2021-12-01から1ヶ月間の記事一覧

木魚歳時記第4652話

人の多く集まることは魔縁を生ずるものだととも教えていた法然は、群集心理の危険を知って集団の生活を禁じて、各自の心中に各自の道場を築くように望み、また門弟らの平和を望んで遺産が争いの種となることをおそれたのである。(佐藤春夫『極楽から来た』…

木魚歳時記第4651話

はじめは相弟子で後には法然の弟子になった信空には、多年給仕の弟子となり、懇意を表さんためにといって黒谷の本坊、洛中の領地一所などを贈っている。これは法然が先師叡空がはじめに贈与と記したのを後に進呈と書き改めて死後に法然に残したものを、法然…

木魚歳時記第4650話

その遺書の内容というものは、わが歿後は各自に別住して一所に供居すべからずと群居を戒めている。また追福を修するために集まる場合にも論争して不和を生じないように慎めと戒め、つづいて建物や資材などに関していさかいを生じては見苦しいと戒めて、信空…

木魚歳時記第4649話

兼実が気をもむのも無理はではなかった。平素は元気で、「生けらば念仏の巧つもり、死なば浄土に参りなん、とてもかくても此身には思いわずらう事ぞなき」 いつも快活な生活者であった法然も、この時は身の亡き後を考えたものか、四月八日病床内で『歿後遺戒…

木魚歳時記第4648話

(四)上人の病気はほんのかぜのように聞いていたのに、冬のはじめからいつまでからいつまでも引きこもり、受戒を請うが授けられない。平素はお丈夫でも、お年は争えず、先年来時々おかぜを召すし、何しろ六十五歳という高齢の上人だからと兼実は気が気では…

木魚歳時記第4647話

折から上人は前年の冬以来、悪質の風邪で臥床していたのを、兼実はもしこの上人をこの世から失ったら、何をたよりに生きようかと心もとさに、幸いに上人が快癒したのを見て、上人の教義念仏要門の編輯(へんしゅう)を永遠の鑑(かがみ)ともkたみにも書き…

木魚歳時記第4646話

その翌年の二月十九日、兼実は父忠通の忌日法要に法然を招じた。 兼実はもとから求道心の深い人で、今までにも、仏厳、覚智、貞慶(じょうけい)、明恵、さては舎弟の慈円などに道を聞いていたが、一度法然を知って以来は、法然でなければ夜も日も明けないよ…

木魚歳時記第4645話

兼実の上人を杖、柱とも思って生きている心情を知らぬ人から見れば、兼実はまるで受戒を道楽にしているかのようにさえ見える。 建久三年、というのは後白河法皇崩御の年であるが、この年も八月八日兼実はま受戒また受戒をしたし、その翌年七月十三日、宣秋門…

木魚歳時記第4644話

建久二年、兼実に何事があったか知らないが、七月二十八日と、まだ一ヶ月も経たない八月二十一日とに二度も受戒したばかりか、九月に十九日には、上人から受戒した後のすがすがしい安心感を味わせたいと思ったものか、息女の中宮、宣秋門院任子ににも受戒さ…

木魚歳時記第4643話

文治五年、というのは大原談義のあった後三年、四十一歳の兼実は、八月一日に法然を招いて法文を談じ往生の業に就いて聞いて以来、上人に対する帰依のの念が日々に募り、八月八日には戒を受けたが、建久元年の七月二十三日にも再び受戒した。彼 は上人から度…

木魚歳時記第4642話

また平氏の滅亡に当たっては維盛の子六代の斬られるのを憐み、頼朝に請うて、その一命を永らえさせた。彼の目には至尊も賤民も源氏も平家も区別なく、ただ弱い者衰えた者を見捨てて置けなかったものとみえる。法然の心を地の底に沈殿する石炭のたぐいとする…

木魚歳時記第4641話

衰えて行った神護寺の復興を企て、寄付を強請して法住寺殿で悪口雑言をほしいままにして獄に投ぜられ、ゆるされて後にまたもや目にあまる狼藉の果てに伊豆に流されると、その地の流人頼朝を扇動して奮起せしめ、頼朝が成功の後、彼は頼朝によって神護寺復興…

木魚歳時記第4640話

この僧文覚もまた、法然とは全く対蹠的な意味で、この時代にはふさわしい一人物である。彼は学問も思想もないが一途な行動の人として、法然の内面的なのに対して、常に外面的に時代を反映した。いつも弱い者に加担して激情のままにはやや狂暴的に近い信行が…

木魚歳時記第4639話

(三)策士らの陰謀をまのあたりに見た文覚は、もと任侠の風があるだけに深く憤るところがあったとみえて、兼実に同情するあまり朝廷を誹謗するような軽挙妄動にに出たため、その翌年、何度目かの流刑に処せられて佐渡に流されて、この島で断食の末八十歳の…

木魚歳時記第4638話

新帝のおん母儀、承明(しょうめい)門院は能因法師の女を内大臣源通親(久我・くが・といい土御門というのも同じ通親である)の猶子にしたのであった。 この時の何やら不明朗な通親らの動きに対して任侠の風のある僧文覚(もんがく)が反応を呈している。(…

木魚歳時記第4637話

しかもその道筋を兼実につくらせたのだから丹後局というのはよくよくの悪らしく、兼実が憎々しげに法皇の愛妾(あいしょう)なりと日記に記していたのも無理はない。その後、間もなく第一皇子為仁(ためひと)新王が立太子あった即日、ご鳥羽天皇ががご譲位…

木魚歳時記第4636話

かって丹後局が生み奉った覲子(きんし)内親王て、女院宣下を、それは丹後局自ら奏請するのも憚り多いからと、その執奏方が兼実に求められ、兼実は一旦それを拒もうとしたが院号宣下は別に他意がない事も明らかになったのでそれを執奏したものであったが、…

木魚歳時記第4635話

同じ日に慈円も天台座主、法務、権僧正、護持僧などを辞し、また建久元年入内して同六年皇女を生み奉った兼実の女、中宮宣秋門院も宮中から下りた。 丹後の局と土御門通親との謀ったクーデターはこれでほぼできたようなののであるが、まだまだあとがあったか…

木魚歳時記第4634話

建久三年十一月顕真の示寂によって、その十二月二十九日、慈円が天台座主に補せられていたのがこれも建久七年のクーデターで、十一月に十五日関白前太政大臣兼実の職を停め前摂政基通が兼実に代って氏長者(うじちょうじゃ)並びに関白となるべき由が宣下さ…

木魚歳時記第4633話

山門では建久元年、かって大原問答の主催者であった顕真を隠棲から召し出して座主に起用したが、翌二年七月には栄西が帰朝して禅宗を弘めなどし、慈円(兼実の弟)の座主就任のうわさも、思いがけない顕真の起用で立ち消えになる。兼実はこれらを山門といわ…

木魚歳時記第4632話

事の実否はともかくも、丹後局(浄土寺の二位)が梶井の宮のために法皇崩御の後、突然播磨、備前などに広大な荘園を設けたのを、関白兼実がにがにがしい事に思ってこれを承認せず、取りつぶさせた。この意地によって、丹後局はかねてより反兼実の土御門通親…

木魚歳時記第4631話

明雲の弟子の梶井の宮という方は昇任親王と申して、院の息子でいらせたが、義仲が法住寺殿に火をかけた時、「我は宮なり」と連呼しながら火中からは脱出したが、生け捕りとなった末に明雲の弟子にされて梶井の宮と呼ばれて呼ばれていた方であったが、当年の…

木魚歳時記第4630話

(二)後白河院の崩御は九条兼実にとっても意想外の打撃であった。兼実は格別の恩寵を賜っているようにも感じていなかったが、彼の政敵もさすがに院を憚って、ある程度矛先をおさめていたらしいのが、院の崩御とともに露骨に攻撃に出たからである。 それには…

木魚歳時記第4629話

三月初旬をすぎては、にわかに院中のあわただしい動きが唯ならず外部にも感ぜられるようになり、法然にも院からのお使いが立てられたが、折悪しく風邪で謹居中の法然は、大原、本成坊湛○に、身に代って院に常在し参らすことを求めた善知識として三月十三日、…

木魚歳時記第4628話

翌建久三年正月、通親を勅使として、伊勢大神宮に祈念されたが、そのしるしも現れないままにご病勢はつのるばかり、二月下旬、院は法然を召して、往生の一大事についての決を、あらためてお質しあらせた。(佐藤春夫『極楽から来た』)1267 極月のピーポーピ…

木魚歳時記第4627話

法皇は御心中、鎌倉陣営に与えた打撃にほくそ笑ませ、天皇親政の前途に光明をお感じあったものであるが、佐々木の一党に死罪や流刑などを御決裁の後いくばくもなく、その年の歳末から、ふとしたお疲れとばかりにに思われた御不例がはかばかしからず、おん下…

木魚歳時記第4626話

頼朝は、大仏殿の落慶式から鎌倉に帰って後も北条時政らの潜行的な征夷大将軍宣下運動を兼実を通じて執拗に続けていたが、院はどこまでもその運動を受けつけない。兼実も困っているうち、かえって、不慮の佐々木の事件(これに関しては後に詳しく書く)が突…

木魚歳時記第4625話

兼実はこうして院の御反感を蒙った上に、院の寵妃、浄土寺の二位こと丹後局まで法皇の御意を体してか兼実に好意のない様子であった。その上近衛基通の側には当時政界の飛将軍とまで言われた策士の土御門通親がいて、これがまた、院の乳母との関係から院のお…

木魚歳時記第4624話

1263兼実はこうして院の御反感を蒙った上に、院の寵妃、浄土寺の二位こと丹後局まで法皇の御意を体してか兼実に好意のない様子であった。その上近衛基通の側には当時政界の飛将軍とまで言われた策士の土御門通親がいて、これがまた、院の乳母との関係から院…

木魚歳時記第4623話

というのは近衛基通は後白河法皇の寵臣であり、鎌倉幕府は天皇親政を理想とする天皇家にとっての敵として、兼実は自然と後白河法皇のお目には敵の密通者のように見えたのは自然の理である。(佐藤春夫『極楽から来た』)1263 老僧は裏堂に来て牡丹鍋 「ボク…