2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧
師匠はこの小さな弟子のために仏典のほか経書をも読み授けて儒学の一端をも学ばせた。師匠はこの弟子に読書力を与えるに当たって解読には特別に小やかましく、一字半句のあいまいをも見逃がさなかった。(佐藤春夫『極楽から来た』)147 をんどりの鳴きてひ…
「さかしいようでも、やっぱり童子は童子だな」 と、心中にささやいた。(佐藤春夫『極楽から来た』)146 天の川さてさて登る梯子ない 「ボクの細道]好きな俳句(1193) 辻 桃子さん。「雪の夜の絵巻の先をせかせたる」(桃子)「絵巻」とは、枕絵(アダル…
と、観覚は少年の好奇に満ちた探究心をいささか持て余した様子であった。それでも師匠なら何でも知っているものと思い込んでいるらしいひたむきな信頼を可憐として顔をほころばせて、(佐藤春夫『極楽から来た』)145 始まりも終りもなくて流星 「ボクの細道…
「何かと思えば木の名か、わしはまだ木の名までは十分ににはおぼえておかなかったが、あれは伯州(はくしゅう)の大山(だいせん)などのような高い山にだけあるもののようだ。ほかにもそんな類(たぐい)の木はいろいろあるらしい。今度誰か山の衆に聞いて…
「お師匠さま」 と不意に、黄色な瞳をかがやかしてあたりを見まわしていた童子に呼びかけられて師匠がふりかえると、童子は高くこずえを指さして、「あの木は何でしょうか」(佐藤春夫『極楽から来た』)143 六月は酸味の効いたライム酒 「ボクの細道]好き…
市のひじりというのは町や村を歩きまわって仏の道をひろめる上人のことだ。これは立派なこしや車に乗る僧正よりも尊いものだ。天子さまのお子で、市の聖にならっしゃったお方もござるのだ」と、話はどこまでも師匠の言葉であった。(佐藤春夫『極楽から来た…
「こうしてそなたの足をきたえさせておくのだ。わしはそなたを立派な輿(こし)や車に乗る高僧にならせたいとは思っていない。わらじがけてひとり野山や村里をどこまでも思いのままに歩きまわる市(いち)の聖(ひじり)にしたいのだ。(佐藤春夫『極楽から…
採ったものを童子に持たせ従えて一しょに散歩することが時々あった。童子もそれを喜びたのしみにしている様子に見えた。それにしてもその時でさえ、観覚は何らなつかしげなことを語り出すでもなく、(佐藤春夫『極楽から来た』)140 仏塔の口ひらきたる花の…
ただ学僧たち一同で朝の看経(かんきん)が終わったのち、仏前に供える花を絶えず新たに咲かわる野に求めるに当って、特にこの最も年少の弟子を誘い伴って、露もまだ干ぬ山野を歩きまわって、花の選び方を教え、(佐藤春夫『極楽から来た』)139 大仏も身を…
観覚は心のつめたい人ではなくて、父を失ったこの童子に対しては父ほどの温情を心の底に深く蔵しながら、それよりはこれをこそ本当の愛情と信じて、専ら師匠の厳しさでこの童子に対した。観覚はもと唯識系の学者で、こういう理性的な人であった。(佐藤春夫…
(二)ここに来た第一夜に最後の親しみを示しつつ宣言したとおり、観覚はこの童子に対して叔父甥の俗縁でのぞまないで、あくまでも師匠と弟子との関係で相対していた。(佐藤春夫『極楽から来た』)137 先生は牡丹の如く大往生 「ボクの細道]好きな俳句(11…
童子は夜となく昼となくすき間風のように心のなかに忍び込む憂愁を追い払う手段として読書する。師匠の与えたものは仏典のほかに経書(けいしょ)もあった。童子はこれに目をさらしつつ文学をとおして古(いにしえ)の聖者たちの考えたところを童子相応にい…
心が急に重たく暗くなったように思われるこの気分は、追えども追えども、彼の心を巣にしているかのように、すぐ帰ってくるのである (佐藤春夫『極楽から来た』)135 輪蔵の一切経や朴の花 「ボクの細道]好きな俳句(1181) 茨木和生さん。「睦ごとはこのご…
人々は彼を勉強好きな少年といった。しかしこれは、童子が、何とは知らず心の中にわだかまっていて時々忌まわしくうごきだすものを追っ払う手だてにしかすぎなかったのである。(佐藤春夫『極楽から来た』)134 亀鳴くや疎水たちまち逆流す 「ボクの細道]好…
童子はひとり捨てられているような気持ちで、しょざいない。といって、今さら今までのように小矢を選ぶわけにもならない。こんな時、彼はひとり房に帰って、師匠が与えた書物を取り出してこれに目をさらすより仕方がなかった。(佐藤春夫『極楽から来た』)1…
またまれには声を張りあげて論じ合っていることもあり、これは学問や道に関することのようであったが、これも童子には十分にはわからなかった。童子は自然と仲間はずれのような形である。(佐藤春夫『極楽から来た』)132 白南風や鯱二萬両泳ぎ出す 「ボクの…
しかし年長の人々は、寄るとさわるとしばしは童子をはばかるかのように声をひそめておもしろげに笑い興じていることが多く、これは何やら世間話のようであったがもれ聞こえても童子にはよくわからなかった。(佐藤春夫『極楽から来た』)131 煙突に玉の湯と…
当年わずかに満九歳の圩頂童子(うちょうどうじ)は、ここで多くの同学の間に立ちまじって、それでなくとも一般に早熟なこの時代でも特に早熟なこの少年の心は、また一。段と早く熟しつつあった。学侶たちもこの童子をいたわり親しんだ。(佐藤春夫『極楽か…
都と九州との中間に位置したここ美作(みまさか)の山上の寺では、九州の求菩提寺のように派手に殊勝なこともしなかったが、また都の寺々の忌(いま)わしい騒ぎもなく、学侶たちは山禽の声に心耳を澄まし、山中清涼の気に飽(あ)いて、専らしずかな修学に…
伝え聞いてさえ到底落ちついて修学などできそうにもないと思われたが、豊前の求菩提寺の僧頼厳(らいがん)法師は都門の上人たちとは事かわって、銅板に『法華経』を刻して供養したとも風のたよりに聞え、仏法もいまだ全くは地に堕ちたわけではなかったらし…
この年、康治元年には、春三月十六日には園城寺(おんじょうじ)の僧徒が延暦寺を襲うて堂宇の焼討ちをしたし、夏八月三日には悪僧十五人がみちのくに追放されるなど、大寺の勢力争いは多事で、(佐藤春夫『極楽から来た』)127 盲目の魚やすませて水温む 「…
その講説を終了して得業(とくごう)の称を得て帰り、学得を世に知られて鄙(いなか)には過ぎた学僧といわれていたから、山陰山陽、西日本各地の学侶が、この山間の地、かなたこなたから僧房に集まって来て、古(いにしえ)の栄えはないまでもその名残はま…
第三章 山上の寺(一)杏木山菩提寺は山号をまた諾山(だくさん)とも称した天台の道場で、古来の名刹(めいさつ)であったし、また現在の観覚和尚は北嶺(叡山)に学んだが、なお足らずとして後には奈良まで行って、いわゆる南都の三会(さんえ)、興福寺の…
「これがわしの昔の夢であったが、わしはこれを遂げないで今は山中の俗僧となって、もう人生の半ばも過ぎた。むかしのわが夢をそなたに譲る。時国殿が非業の死を遂げながらあの遺言をされたのも、そなたにふさわしい運命だ」(佐藤春夫『極楽から来た』)124…
と、観覚は語りつづけた。「そなたは極楽から来た人として生まれたままの心で年をとり、娑婆気に染まないで人間世界の有様をよく見て人間界を導いて娑婆に極楽の空気と光とを持ち来たし、極楽に娑婆の現状を伝える人として帰ってもらいたいのだ」(佐藤春夫…
「いやすべての童子はみな極楽から来たものと観じている。それが娑婆(しゃば)に住むうち娑婆気に染みてみな極楽のおもかげがうすれてしまうのである。わしはそなただけはいつまでも極楽から来たままの人でいてほしいとの願いから、そなたをここへつれて来…
と、観覚は甥の童子の中くぼみの頭をなでながら笑って、「わしは阿弥陀如来(あみだにょらい)の右のおん脇士(わきじ)にご遠慮申し上げて勢至丸(せいしまる)とは申さないが、年ごろそなたを極楽から来たと考えている。(佐藤春夫『極楽から来た』)121 …
「時に小矢児、寺のなかで小矢児とと呼ぶのは物騒で似合わしくない。さあ何と名づけたらよいものか。今によい名を考えて置こう。いや今にわたしよりももっとえらい師匠がいい名をつけてくださるまで、仮に圩頂童子(うちょうどうじ)と呼ぶとしよう。そなた…
童子はもちを食べて母を思いながら森で野鳥の鳴き交わすのを聞きつつうなずいて、「叔父さん、ではないお師匠さま、あれはふくろうですか」「うん、ここらにはあれが沢山いる。ほととぎすも鳴くよ。昼間はそこの縁がわに木ねずみが出てきて遊ぶ」(佐藤春夫…
「出家には叔父さんもお母さんもない。ただ仏さまのお弟子として仏の教えに道を求め、それに従って報恩の生活に入るのだ。といってもまだ何のことやら、よくわかるまい。今にわしがだんだんとわからせる。わしは及ばずながら師匠、道の先達なのだ」(佐藤春…