2019-09-01から1ヶ月間の記事一覧
そこには美しい女主人のほか、もちろん侍女たちもいてこの女人ばかりの有閑家庭は客を喜んだから、藤原氏や平家の公子たちなどが、チヤホヤされるままに好んでここに集まり、春宵の歌会、秋夕の管弦などと然るべき口実よろしく、時には、ここに泊まり込んだ…
(四)近衛河原の大宮御所を伏魔殿などとは我ながらあまりにセンセーショナルないい方であった。そこでいい直すが耽美的(たんびてき)サロンとでもいうべきであったろうか。(佐藤春夫『極楽から来た』)607 こほろぎのよほどつかれているやうだ 「ボクの細…
この二度目の大宮御所は頼政の宅地居邸をお譲り受けあってお住まいになられたというのである。 頼政は旧邸の付近に新居を設け住んで、大宮御所の隣人となった。 ところが大宮御所という尊貴に美しい寡婦(かもめ)の家は、誇張すれば一種の伏魔殿であった。…
二条天皇が中宮子内新王に冷淡であったのは、美福門院の勢力の加わるのをおそれた奸臣経宗らが天皇の多子を愛し給うのを奇貨として中宮を遠ざけ奉ったためで、中宮は二十で落飾あらせ、そのあとに二代の后が再入内あったわけである。再度の入内前から多子は…
藤原多子(たし)というのは右大臣公能(きみよし)の女で近衛天皇の中宮であらせた尊貴な後家さんであった。二条天皇は同い年の多子の美を愛でさせ給い、周囲の諌言(かんげん)もお用いなく、経宗、惟方らの計らいでついに再入内した。今に伝えて「二代の…
のぼるべきたよりなき身は木のもとに椎を拾うて世を渡るかな と詠じて三位に昇り、源三位と呼ばれる。しかしこの昇殿は歌の徳ではなく、死を前にした七十五歳の彼をあわれみ、久しく圧迫しつづけた清盛が罪ほろぼしに奏上して彼に得させたものであった。 官…
清盛の昇殿はもう一むかし前の話、頼政が昇殿の翌年、清盛は太政大臣になっているのだから、頼政の喜びはむしろ哀れなようなものであった。 木がくれて月を見る歌で味をしめたためでもあるまいが、彼は四位で十年ほど停滞していたころ、(佐藤春夫『極楽から…
というのは、後白河院と二条天皇とのおん仲は、奸臣経宗、惟方の配流の後も依然として甚だしくご不和で、上皇が天皇の近臣を処罰されると、天皇はまた報復的に上皇の側近を処罰し給う。こんな事で双方の重臣たちも安き心のない日々である。こういう空気で官…
(三)頼政は譜代の部下たる猛卒部隊で保元の乱にも活躍した渡辺薫を率いて「大内山の守護」に任じていた。しかしこれは官職ではなく、禁中の近衛長のようなもので、彼の武勇と家柄を買われた名誉職のようなものであったらしい。それとも禁中に近づこうとの…
ともあれ、一族がすべて悲惨な最期を遂げたのちまで、頼政はすでに五十の半ばも越えた身で、ただひとり、うまく生き残っていた。 しかしうまく生き残ったというだけで、保元にも平治にもその手柄はあまり認められなかったものか、花々しい恩賞にはにも預から…
それに頼政は、為義や義朝とは同じ源氏、それも血のつながる清和源氏の一門とはいえ、頼政は満仲の長男頼光の末なのに対して、為義や義朝は満仲の三男頼信の末だから、兄弟は他人のはじまり、そうしてもう四、五代も時代が経ってしまったとあっては、格別に…
こういう現実主義的な一族で、義理も人情もなく権門い媚(こ)びりついて一身の栄達を図る血筋の家であってみれば、たとえ頼政が保元の乱に一族の長老為義などは顧(かえりみ)ずに、将来ありげな平清盛に協力して譜代の部下渡辺薫ら二百余騎を従えて白河殿…
さればこそ頼光なども諸国の受領を歴任して家に巨万の富を積み上げていた。それで道長が盛宴を張ると聞けば、お客への引き出物にと肥馬三十頭を贈るし、道長の新邸落成に当たっては、さすがの道長も歓喜するばかりに豪華な家具什器の一式を取りそろえて寄進…
多田源氏は、はじめ、藤原氏の強敵と見えた賜姓貴族の雄、西宮左大臣の謀反を讒訴(ざんそ)して藤原北家に取り入り、満仲、満政、満季の三兄弟が、当時勃興していた多くの武者の中から抜擢されて、京都の軍事警察に任じられて武家の総元じめのような事にな…
次男に生まれた彼には、兄頼光のように受領に取り立てられるような幸福もなく、身軽な身と、その命知らずの武勇とが人に利用されて時おりは殺人などの請負い仕事をやったものとみえる。この一族のパトロンであった道長も、頼んだ事もありげな文句ではあるま…
(二)名誉ある源氏の大将頼光の弟頼親が殺し屋ではなかったかと疑われるというのは、ほかでもない。関白道長の日記『御堂関白記』(みどうかんぱくき)には頼親のことを記して「件(くだんの)ノ頼親は殺人ノ上手ナリ、度々コノ事アリ」という奇妙な文句が…
ひとり多田源氏とばかりは限らず、総じて初期の武士というものは、荘園の番犬みたいなもので、いわば人間ブルドッグや土佐犬の類で、ロクな人間のする仕事ではなく、武士団は現在のヤクザにの結社に似た存在であったらしい。 もとより武士団の棟梁にもまれに…
彼は清和源氏の祖といわれる六孫王(清和天皇の第六皇子貞純親王の王子)で源の姓を賜った基経の末孫という名門の出である。 六孫王基経の長男満仲は摂津多田の庄に蟠踞(ばんきょ)して、ここに勢力を養い、清和源氏の一名を多田源氏といわれるまでの基礎を…
そうして退治されたぬえは怪鳥と伝えられるがその形態を聞くと、怪獣という方が適当かも知れない。それよりもこれを退治した頼政その人が、わたくしには、頭は歌人、胴体が政治家で、尾は武人のような、それとも頭が武で尾が歌か。とにかくそんな怪物のよう…
何にせよこれらの話は頼政伝説として頼政という人物を伝える以上に、その時代のふんいきをよく伝えるものとしてここに記しておくのである。 ぬえの正体はもとより、それが朝廷に対する院の重圧だか、それとも一般貴族に対する武家の威圧か、はた何ごとの象徴…
ほととぎす名をも雲居にあぐるかな と歌いかけると、頼政は口とくも、 弓張月の射るにまかせて と下の句をつけ、また一しおの御感に頼政が、かねて目をつけていた御所の女房のあやめと、それにうり二つの別の女房とを同じように装わせて本ものを選ばせ賜ろう…
射ち取って地上にズシリと落ちてきたのを、者どもがたいまつで照らし出してみると、これはいかに、頭は猿、胴体は虎、尾は蛇、ぬえという名の怪物であったという。この奇跡的に神秘な武勲を、あっぱれと御感あらせて名剣獅子王を賜った時、それを取り次いだ…
第十三章 ぬえ的人物(一)源三位入道頼政の武勇を伝える伝説として、ぬえ退治は有名である。 三条の森から夜毎に黒雲に乗って内裏の上に襲いかかって宸襟(しんきん)を悩まし奉る怪鳥を頼政が五月闇にもかかわらず射ち取ったという弓矢のほまれである。(…
「例の法然房とやらは近ごろどうしているかな」「相変わらず山を出たり入ったり、諸山の法蔵でしきりと何か暗中模索している様子。世にも尊い学生(がくしょう)と愚息めも感心いたし居ります」「道はまだ見つけぬか」「はっ」と伊通はわが事のように恐懼(…
側近のなかでは形式張らないで辛辣に機転の利いた面白い話をする憂国慨世(がいせい)の士、太政大臣伊通を喜んでお話相手とされた。 彼伊通は叡山黒谷の慈眼房叡空の父であったから、叡空の室にいた法然房のうわさわは伊通の口から度々お耳に達していた。(…
もともと歌菩薩に仕えてご修道を志し、今様の法文歌などで仏たちの世界にあこがれて居られた院がこの人知れぬご苦悶(くもん)に、穢土(えど)を厭離(えんり)し浄土を欣求(ごんぐ)し奉るのは当然であろう。院は御在位の当時から、常に宗教界のご消息に…