頼朝は、大仏殿の落慶式から鎌倉に帰って後も北条時政らの潜行的な征夷大将軍宣下運動を兼実を通じて執拗に続けていたが、院はどこまでもその運動を受けつけない。兼実も困っているうち、かえって、不慮の佐々木の事件(これに関しては後に詳しく書く)が突…
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