2020-06-01から1ヶ月間の記事一覧
おん恨みはいつ消えるとも見えなかった上皇も三年目には新しい寵妃丹後局を見出し給うたが、天皇のおん悲嘆は消える日もなく宝算二十一でご多病に短いご生涯を終って母后の後を追わせられた。(佐藤春夫『極楽から来た』)914 真夜中にびっしょり汗をかいて…
そればかりか、お気休めにご病気も軽くいよいよ快方とばかり奏上して置いたのが、突然の崩去を聞こし召されて、当年まだ十五のこの君は終日おん臥所(ふしど)にこもらせて泣き暮らし給うばかり、お側近く仕える者どものお励ましに、やっとお気を取り直しあ…
院のおん嘆きもさることであるが、もっとおんいたわしいのは高倉天皇で、身は六波羅の里内裡に平氏の人質のようになって、おん母后のお見舞さえ御意にまかせぬ。清盛は主上を召し上げられるのをあそれて行幸させ奉らないのである。(佐藤春夫『極楽から来た…
この邦綱というのは院の側近ではあるが、また清盛のお太鼓持ちを兼ねて、疑えば清盛の院に潜入させたスパイかとも思える人物である。(佐藤春夫『極楽から来た』)911 ひまわりのどこまでのびるかわからない「ボクの細道]好きな俳句(1996) 池田澄子さん。…
思えば二十年はただ一夢で、近年、安芸の海に、また熊野の山に、有馬の浴泉に、むさぼるかのように歓を尽くしたのも、ただ今日の思い出の悲しみを深めるあったかと、上皇のおん恨みは日増しに深くなるばかりで、お膳さえも召し上がらない始末であると側近の…
そうして七月八日崩去され、お年は三十五歳であらせた。春の日の花やかにお元気なお姿はまだ人々の眼底にありながら、女院は既に世に在(おわ)さぬのである。 女院はかねて仏法に深く帰依されて蓮華王院のわきに法華三昧堂を建てて居られたのが崩去の後に完…
女院は既にまた起(た)たぬ身を自覚されたものか、女院号と、それに付随したさまざまな特典とをことごとく拝辞し、今はただ一介の女子として戒を受け、覚悟の程を示された。(佐藤春夫『極楽から来た』)908 山頂は極楽のごと風涼し 「ボクの細道]好きな俳…
占いによって灸冶(きゅうじ)の可否をきめたり、蛭(ひる)に吸わせたり、化膿下したのを針でつっ突いたり、おぼつかなくももどかしい治療の手を尽くしたり、千僧の読経などの末に、それでも腫瘍の方は幾分ご快方のように見えたのに食欲の不振は、ご体力の…
それが五十日ばかり後に御発病があった。この玉のような女体は何か情熱よりも悪質な細菌の巣になったものらしい。全身の淋巴線(りんぱせん)が次々と腫れて治療の手もつけられない。(佐藤春夫『極楽から来た』)906 夏障子ひらきたちまち鳥の声 「ボクの細…
そうしておん賀のめで。たく終わった時には特に使いを出してこの時の上卿(委員長)であった院の別当中宮大夫隆季にその労をねぎらうほどの行きとどいたお心づかいもあった。(佐藤春夫『極楽から来た』)905 打ち水を草木にあげる何べんも 「ボクの細道]好…
第三日にはお召し替えあらせて、唐衣、表はもえ黄色で、青のむら濃(濃淡ある染め方)に色々な糸で丸く図案化された薔薇(ばら)を縫い取り、裳のひもはすおう色むら濃、打ち衣は紅のむら濃という豪華けんらんに会衆一同の目をそばだたせたものであった。(…
(五)建春門院はおん賀の第一日には紅の薄様(うすよう・上方濃く下を次第に淡くぼかしたあけぼの染め)のお召しものに、白い五重織り一かさねの唐衣(からぎぬ・大陸風仕立てで当年の婦人宮廷正装)に裳(も)のひもは赤地の錦で、それぞれに金銀の紋用(…
清盛からは重盛の取次で中宮に道風筆の『古今集』を奉り、院からはこの賀に対する一族の尽力を多とする陰宣にそえて御使は白銀の箱に金百両を西八条の清盛別邸にとどけさせた。 七日は雨天、人々はおん賀三日間の晴天を慶賀した。(佐藤春夫『極楽から来た』…
第三日の六日は、地下(じげ)の人々も多少加わって、半ば儀式、半ば遊楽の、賜餐や管弦歌舞に暮れた。当日は人々が立ち替って「青海波」(せいかいは)を舞ったが、これまた維盛が最上位とあって、父重盛は場所柄も忘れてうれし涙を流していた。(佐藤春夫…
女房たちの船は御前の汀(なぎさ)に停めて置いて、ほかに遊びもがなとまりを取り出した蹴まりにも飽きてこれを納めたところで、船中の管弦はあたりにひびきただようていた。月のない庭の暗さに随身たちはかがり火をたいてこの日の遊びは終わった。(佐藤春…
藤原氏や平家の殿たちも船中に召されて管弦を催す。御前の沖にさしかかると、御所のなかから中宮大夫はじめ人々が吹奏してこれに応(こた)えた。なかでは維盛の笛が上手である。主上はまた格別であらせるが。(佐藤春夫『極楽から来た』)899 亀鳴くや座敷…
昼になってから、船遊びにしようと中宮や院の女房たちをそれぞれの蔵人(くろうど)がそれぞれに船を仕立てて漕ぎ出した。船べりに色さまざまな袖口を並べつらねたのが目もあざやかである。(佐藤春夫『極楽から来た』)898 吹き抜けを真っ逆さまに青大将 「…
おん賀の二日目、五日は、六日にはまだ後宴があり、今日は非公式にややくつろいだ側近だけのお祝で、関白以下も宿直装束(とのいしょうぞく)で、衛府の面々も院の随身も正装でなく思い思いの意匠に晴れを競うて着飾っていた。(佐藤春夫『極楽から来た』)8…
つづいて楽器をと主上が仰せ出され、関白が御笛こたか丸を箱の蓋に入れて天皇に奉り、左大臣が、琵琶、内大臣がソウの筝(こと)、中宮大夫が笙(しょう)などで伴奏し奉り、左中将知盛と雅賢とがつけ歌を歌った。高倉天皇は、おん笛の名手であらせた。この…
院のおん前を三度ひきまわすと、左大臣が乗れと命じて綱をとっていた者たちがそれぞれに乗りまわしてご覧に入れ、左大臣が下りろと命じて面々を下りさせ、院の御前にひき立てさせて後、左大臣はみ厩(うまや)に曳き立てさせて、み殿の舎人に渡させた。(佐…
式場の入口には諸方からお祝いの献納品が積み上げてあったが、それとは別に今日お招きを人々から、院に御馬を十頭、平あやの移し鞍を置いて献上した。 近衛の舎人(とねり)たちが綱を引き、殿上の衛府、左中将知盛(とももり)、中宮亮重衡(しげひら)、左…
この日、院のおん座には唐錦(からにしき)のしとねを、また玉座には東京(とんきん)の錦のしとねを参らせていたという。 他の舞人や衆人たちにも、それぞれに禄(祝儀)を賜った。(佐藤春夫『極楽から来た』)893 ただ灼けて水をごくごく呑んでいる 「ボ…
右の肩に掛けて舞うような身振りで院を拝し奉った。これが下賜品を拝受の時の作法なのである。時にとって無上の面目に見えて、周囲の人々もさぞやうらやましいと思ったのであろう。(佐藤春夫『極楽から来た』)892 鹿の子の尻尾ふりふり河川敷 「ボクの細道…
(四)「今日の舞いは、比較するものなどあるまいと思われるでき栄えと見た」 と維盛にお言葉のあった院は、女院のお織物のうちから衣類に紅の袴をそえ、関白をして被(かず)け物を授けさせたので、父の大将重盛りは席を立っておん座に近く進み参り御衣をお…
舞いおわって帰ろうとする時、院は殿上人を御使いとして御前に維盛(これもり)をお召し寄せあそばされたものであった。(佐藤春夫『極楽から来た』)890 雑巾の中に百足の確か居る 百足(むかで) 「ボクの細道]好きな俳句(1975) 岡本 眸さん。「白き息…
入綾(いりあや)というのは舞い納めの部分を繰り返し舞って退場するのである。維盛(これもり)は青色の上の衣,蘇芳(すおう)の上の袴に、美しい顔の色、表情などあたりにまばゆく、観衆を魅了すること、かざしの桜さながらであった。(佐藤春夫『極楽か…
左右が交互に舞うのである。右から少将隆房(たかふさ)が舞い終わって、左の舞い人をを促すと、しばらくして権亮少将維盛(これもり)が出て来て、高麗楽(こまがく)の一人舞の入綾(いりあや)を舞った。(佐藤春夫『極楽から来た』)888 1、2,3、蟻…
楽屋の様子がまた荘重なもので、表裏無垢の唐錦の幔幕(まんまく)に金銀の模様を置き、螺鈿の柱に、からくれないの綱を張り渡し、棟には白銀の鶴をとまらせていた。(佐藤春夫『極楽から来た』)887 あ。うん。宝石となるさくらんぼ 「ボクの細道]好きな俳…
司令はすべて中宮大夫であったが、席を立って命ずると、やがて管弦が湧きおこり、賀王恩(かおうおん)の曲を吹きながら御前の庭を渡る間を、蔵人所(くろうどどころ)の面々が舞人たちにかざりの花をくばっている。左の組は尾の上の桜、左は井出の山吹であ…
それ故、おん儀式がすんで、賜餐になると院の陪膳には院別当大納言藤原隆季(たかすえ)、そうして門院の陪膳には左衛門督宗盛(むねもり)卿というわけで、式場の一隅には武者所がかたまっているのや、院の随身が狩装束でひかえているのも見えたとはいえ、…