木魚歳時記第4659話

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 執筆には安楽房遵西、引文照合は証空であったが、中途に遵西を退けて真観代えた。遵西を中途で退けたのは、彼はわが身に能があってこの大任に当たるを得たことのよろこばしさと、増上慢めいた言葉を洩らしたのを法然がにくみたしなめたのであった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)1298

       人日に口ひらきたる料理店  人日(じんじつ)

 「ボクの細道]好きな俳句(2396) 野見山朱鳥さん。「鶴を見る洟垂小僧馬車の上」(朱鳥) 「洟垂小僧」とは作者自身のこと? 宮沢賢治さんの世界、つまり、「山猫軒」へと「馬車をあやつる洟垂(はなたれ)小僧」の姿など浮かんでまいります。メルヘンティックな賢治ワールドを楽しみましょう(笑)。

人生は自分持ち 
運命も自分持ち 
(石川 洋)

 

木魚歳時記第4658話

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 そこで然るべき門弟たちを選び、それに口述して筆録させる方法によった。『選択本願念仏集』、念仏一行の行相と安心とを明確に示し、特に弥陀色心(みだしきしん)の光明遍照の事実を明示して、称名の行を先にすべき事を「三経一論(浄土三部経と『往生論』)を所依<しょえ>経典として引用し傍注の経釈を援用し、ひとえに善導の釈文を証拠として凡入報土(ぼんにゅうほうど)すなわち一切衆生を極楽に救う事を説き示して、残るくまもなく説き示したものである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)1297
 
        雲水もマスクをしたり大徳寺  雲水(うんすい)

 「ボクの細道]好きな俳句(2395) 野見山朱鳥さん。「交響楽運命の黴拭きにけり」(朱鳥) 「黴拭きにけり」とは! アナログ版のレコードですと、まず、レコード板()の黴(かび)を拭うことから始ります。取り合わせに俳諧味を感じます。俳句は「難しいことを易しく。易しいことをより深く、より深いことを楽しく」(井上ひさし)です(汗)。

こころに花を
ひとに愛を 
(石川 洋)

 

木魚歳時記第4657話

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 (五)さらば穢土のかたみにもと筆を執ってみたが、平素文筆に親しまない身に病後の無気力は、思わしくも筆が進まない。それでいて書きたいことは油然(ゆうぜん)と雲のように湧き起るのをおぼえた。(佐藤春夫『極楽から来た』)1296

          書初に「天上天下唯我独尊」

 「ボクの細道]好きな俳句(2394) 野見山朱鳥さん。「人も子をなせり天地も雪ふれり」(朱鳥) 「子をなせり」とは「父と成れり」の意味でしょうか? さて、法然上人は「法爾自然」(ほうにじねん)、すなわち「ありがまま」の内から、二字を戴かれ「法然」(1133~1212)と号されました。そして43歳の時、庶民の仏教である浄土宗を開かれました。

 心にくもりなきときは
多くの言葉を必用としない
(石川 洋)

 

 

木魚歳時記第4656話

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 一時はさしもの念仏も退転したほどの容体で、やがては浄土へ帰るであろうともいい、遺戒文まで作ったが、老年のため回復が遅々としていただけで、しんの強いこの肉体と気迫に満ちた精神とは気候の温暖とともに順次快方に向かうと、気力も生じ、初めはあまり乗り気でなかった兼実の依頼にも応じようという気になって『選択 本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)という題名を考案した。(佐藤春夫『極楽から来た』)1295

       また来たらもう来て寝てる竈猫  竈 猫(かまどねこ)

 「ボクの細道]好きな俳句(2393) 野見山朱鳥さん。「雉子鳴いて冬はしづかに軽井沢」(朱鳥) さて、もういちど「全世界の中で、私という存在は唯一つしかない。だからこそ、私という存在を大切にしたい」。これが「独尊」の意味です。あわせて<私>以外のすべてとも「共存」したい。「独尊」vs「共存」は、仏教の中核的な教えと発展します。

人と人を結ぶ時は
自分の意見をもたないことである
(石川 洋)

 

木魚歳時記第4655話

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 遺跡を一か所に限るのも好ましくない。念仏の声のあるところすべてをわが遺跡と思うからといったことのあったのは、キリストが弟子たちに汝ら三人集まるところ必ず我在りといったのと相通じるゆかしいものである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)1294

            独尊と墨たつぷりに筆始め

 「ボクの細道]好きな俳句(2392-2) 野見山朱鳥さん。「いちまいの皮の包める熟柿かな」(朱鳥) むむ。達観の俳句。さて、ボクは、2021年5月17日~8月2日まで緊急入院をしました。そして「要介護2」と認定されました。入院中は「一日でも早く退院したい」。しかし退院すると「わがまま」が顔を出します(汗)。

「すべて偉大なるものは
 小事のまごころからはじまる」 
(石川 洋)

 

木魚歳時記第4654話

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 『遺戒文』を見ると、一身の没後なにもかもきれいさっぱりと散じて跡なくなり、唯門門弟らが睦まじく各自一心に念仏生活に徹することが理想で、吉水教団の第二世などはまったく念頭になく、むしろその解散を期待していたやに思える。この法然の志が当年も現今も果たしてどれだけ行われているか作者は知らない。
(佐藤春夫『極楽から来た』)1293
 
        老僧は狗日生れの八十五  狗日(くじつ)= 1月2月 

 「ボクの細道]好きな俳句(2392) 野見山朱鳥さん。「裸子や涙の顔をあげて這ふ」(朱鳥) フツーの父子のかかわりでしょう? さて、仏教の教えの中に、菩薩道(ぼさつどう)・つまり「共存」があります。「独尊」と「共存」は、葉っぱの裏表のようなものです。ですから「独尊」と「わがまま」とは違います。ボクの場合、多くは「わがまま」だから困ります(汗)。 

人はみとめられるところから
心をひらく 
(石川 洋)

 

木魚歳時記第4653話

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 それから宗教的活動としては、図仏、写経、檀施(法のPRのために施主となること)等の善を修することなくただ一向(いっこう)に念仏せよと戒めて、念仏以外に真の善行のないことを教えている。
(佐藤春夫『極楽から来た』)1292

      和尚さて独尊居士や去年今年  去年今年(こぞことし)

 「ボクの細道]好きな俳句(2390) 野見山朱鳥さん。「落椿天地ひつくり返りけり」(朱鳥) 椿の花は落ちても妖艶ですから・・明けましておめでとうございます。本年も『木魚歳時記』をご笑覧ください。さて「独尊」(どくそん)とは? 「この世の中で<我>という存在は唯一つしかない。そのこと、つまり<私>を、つまり<個性>大切にしましょう」の意味となります。(ちぎり絵 和子)

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(石川 洋)