この報復として定綱の京都住宅を焼こうとする風聞に関白九条兼実は、座主顕真をして衆徒の暴動を喩止せしめた。延暦寺の所司三綱、日吉宮司らが兼実邸に来て事情を訴えたところによると、佐々木荘の未進を責めると、住民ら自身で火を住宅に放ち、宮司らがこれを消そうとしたところ、これを妨げ再び火を放ってこれを焼失し、宮司らが帰ろうとするのを三方の橋桁を引いて通らせず、数十騎の軍兵が出勤して刃傷に及んだもの事の奇怪は前代未聞である。早く定綱父子を賜り、七社の宝前でこれを糾明したいとの申し入れたものであった。放火は恐らく山徒にまじって庄民自身がしたというのが真相であろう。(佐藤春夫『極楽から来た』)1338
新刊の本の匂ひや鵙の贄 鵙の贄(もず)贄(にえ)
「ボクの細道]好きな俳句(2438) 矢島渚男さん。「熊笹に濁流の跡いわし雲」(渚男) 大雨の後の濁流の激しさは、最近、いやになるほど見ました。熊笹と濁流と「いわし雲」の取り合わせが絶妙に思いました。台風一過、ウソのように広がる鰯雲だから美しさが目に入るのです。
ふたりずれ、
ぼんぷ、ふたりに、
かわ(河)がある。
『定本 妙好人 才一の歌』(楠恭編)