木魚歳時記第4834話 

 (二)善信は妄想の徒になりたくないと心がけている。妄想の徒にはなりたくないが死んだ教えを奉ずる者には、なおなりたくない。彼が慈円を去って法然に赴こうというのは慈円の恩をわすれたからではない。慈円の仏教がも早や死んだもので、法然のものには生命があるのを認識したからである。恩に殉じて死んだ教えに己を封じ込めることに彼は堪えられない。(佐藤春夫『極楽から来た』)

        剃刀の喉もとあたり鱧の皮

 「鱧の皮」は夏季です。(男が)理髪店でヒゲを剃ってもらっていて、剃刀(かみそり)が喉(のど)に来たとき、ヒャリと感じたことが? やられるのではないか! そんな思いです! さて「湯びき」される「鱧の皮」は見事という外ありません! この作品はぼくの好きな俳句の一つです!