木魚歳時記 第3331話

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 山中によい泉を見出し、その流域を見積って四至(しいし)すなわち開墾予定標を立てて開墾を企てて荘園としてついにめでたい稲岡の地に南北二つの庄の領主となったのは、源氏の分れといわれて津山出身の国内切っての旧家で名族とされる漆(うるま)氏{または漆間(うるま)とも伝える}であった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)37

      大盃の月を飲み干し月に飛ぶ

 「ボクの細道]好きな俳句(1082) 能村登四郎さん。「並木座を出てみる虹のうすれ際」(登四郎) さて、「並木座」とは固有名詞(劇場名)でしょうか? ではないでしょう。並木の茂み(座)から出て、ふと空を見上げると、見事な虹がかかっていた。それも、みるみる消え去ろうとするその瞬間でした。こうした出会いは、心にゆとりがないと見過ごすものです。

 

木魚歳時記 第3330話

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 最初、北の庄に近い笛吹き山中腹の一角に、ほとばしる泉があったのを掘りひろげてわき水の量を加えたこの半人工の天然泉を谷間に落とした渓流によって北の庄がまず開かれたが、水量が見込み以上に豊富なのを見て更に南の庄も開いたものであった。ここではいつも豊作で人口の増加も一向に苦にはならず、かえって労働力となるというめでたい土地であった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)36

      弦月や五臓たちまち覚醒す

 「ボクの細道]好きな俳句(1081) 能村登四郎さん。「泪耳にはいりてゐたるかな」(登四郎) 悲しい事があって泣いた。その泪(なみだ)が耳に入ったのではない? それでは「耳に入りたる泪」とは? それは作者にしかわかりません。しかし、歳を取ると「わけもなく」泪が目じりをつたうこともあるようです。老衰でしょうか? ボクは眠っていながら(夢を見て?)しゃべることがあるそうです(汗)。

 

木魚歳時記 第3329話

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(二) このように弓削の庄から恨みを買っている稲岡の庄というのは、弓削の千メートルばかりの北方に弓削と隣して山ぎはの西寄りの地点にあった。地域は弓削よりはやや広大で南北二つの庄に分かれている。
 二つの庄とも東方に南向きにゆるやかな斜面を縦横に走るゆたかな水のある耕地の好もしい荘園であった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)35

      月天心月に焦れし求道僧

 「ボクの細道]好きな俳句(1080) 能村登四郎さん。「改札に人なくひらく冬の海」(登四郎) 寒村の無人駅に降り立ったのでしょうか? 改札とは名ばかり、その駅に降りたのは作者がただひとり。中腹を縫って走るローカル線の改札口からは、前方になだらかに下るその向こうには冬の日本海が鈍色にひかります。

 

木魚歳時記 第3328話

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 そうして定国が弓削の預所となって再び美作に帰ると預所の成績を上げるためにいままで捨てて置いたやや高いあたりに鋤(すき)を入れてもう一度稲岡に水の分配を交渉し、自分で新しい池を設けようともいったが、稲岡でも今度は応じなかったため、弓削の新田はいつまでも水無なので、定国は天与のものを稲岡が私(わたくし)して国土を荒廃させると常に憤慨していたのを、定明は忘れず父の失踪を叔父の説得にもかかわらず稲岡のせいにするのを庄民一同も定明に同情し同感した。
彼ら一同には定国の純粋な理想主義の夢は一向に理解されず、通俗に現実的な稲岡への恨(うら)みだけが同感されやすかったのである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)34

     灼熱のタントラ仏にある渇き

 「ボクの細道]好きな俳句(1079) 能村登四郎さん。「坂があり夕鰺売りの後に蹤く」(登四郎) 「蹤」(あと)と読むのでしょうか? 蹤(つ)くと読むのでしょうか? とするならば、自身が坂道にかかる時、偶然、前を行く鯵(あじ)売りに追いつきその後を追う形となった。折からの夕日に染まりながら・・

 

木魚歳時記 第3327話

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 弓削はもと最も平野に近く面積も広かったから早く開墾されていたが、水上の稲岡で水田を開いてここが水不足となったため、一時は不堪佃田(ふたんでんでん)としてしばらく荒廃に委ねられていたのを、明石定国(あかしのさだくに)が着目し遠い昔の他人のことを持ち出してそれを理由に(水上の)稲岡から水を分けさせてこの廃(すた)れ田を復活させた荘園を堀川天皇に献上したものであった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)33
    
      滴りて焔青めく明王像   焔(ほむら)

「ボクの細道]好きな俳句(1078) 能村登四郎さん。「子等に試験なき菊月のわれ愉し」(登四郎) 「菊月」(きくつき)とは、「長月」(ながつき)、つまり、陰暦九月の異称です。この頃に学校の試験があるのか無いのか? その時代の流れで定まるわけですが、それはともかく、子らに試験がある時期の親の気苦労は相当なものです。

 

木魚歳時記 第3326話

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 地味(ちみ)は決して悪くはなかったが、盆地というものの、百五十メートル平均の高地で川には遠く、その上雨量に乏しい地方ときているから、一帯の水不足のため、せっかくの沃土(よくど)も平地のような収穫は望むこともできないで、もともと狭い土地のみじめな寒村が年々に増殖する人口を養うには、到底産児をまびくぐらいでは追いつかないのが、この土地一帯の実情であった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)32

      極彩の十二神将鵙猛る

 「ボクの細道]好きな俳句(1077) 能村登四郎さん。「怨み顔とはこのことか鯊の貌」(登四郎) 「鯊の貌」(はぜのつら)と読むのでしょうか? なるほど、硬骨魚であるハゼ科の小魚は剽軽(ひょうきん)なツラ構えにかかわらず、「ゴリ押し」のことばがあるように、負けず嫌いな面があります。「怨み顔」とは! ハゼによほどの悔しいことがあったのでしょう。

 

木魚歳時記 第3325話

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 弓削も稲岡もわずか二十戸かそこらの小さな家々が、あちらの山すそ、こちらの森かげというふうにちりぢりばらばらである。このころの一戸は人数が多かったとはいえ、二十戸でせいぜい四、五百人であった。
 それがすりばちの底のネコの額(ひたい)ほどのやせた地に精根をを打ちこんで耕作しているのであった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)31

     身に入むや真言秘密の仏たち

「ボクの細道]好きな俳句(1076) 能村登四郎さん。「鳥渡る旅にゐて猶旅を恋ふ」(登四郎) こうした体験はボクにはありません。しかし、旅の途中にまた次の旅に思いを馳せる、そうした心中を察することは出来ます。さて、被災者(東日本大震災)に哀悼の意を込めながら「鳥渡るなにごともなく鳥帰る」の一句を作ったことを思い出しました。