木魚歳時記 第3324話

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 福渡までの山間部には幾つかの小盆地が点在している。盆地というものの三百メートル内外の山に囲まれてそのふもとにある百五、六十メ-トルほどの高地にあるわずかな平地なのである。
 津山から福渡までの街道は、これら幾つかの高原的小盆地を北から南に貫くゆるやかな下りで、稲岡の庄といい弓削の庄というのも、みなこの沿道の小盆地を開いて成ったものである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)30

  (平成22年京鹿子祭応募作品)「沙門空海」15句
    竜天に登るがごとき入唐僧  入唐僧(にっとうそう)

 「ボクの細道]好きな俳句(1075) 能村登四郎さん。「挿木する明日へのこころ淡くして」(登四郎) ボクは挿木(さしき)の体験がありません。ですからなんともわかりません。しかし、樹木の「いのち」を伝えるために、場合により、挿し木を行うことは大切な行為なのでしょう。しかし、人工的な行為が、邪(よこしま)な目的で行われると、それは自然体系を破壊しかねない危険な行為となります。

木魚歳時記 第3323話

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 中国山脈の山なみが南へあふれ出て、ほぼ並行する二つの小高い山のしわのつくる小山脈の山峡を利用してできたのがこの枝路である。
 この枝の幹に近い北の半分、津山から福渡までの二十キロの間は西南に傾斜した地形で、その底部に当る旭川の一支流が南して福渡で合して海に入る。昔は福渡から旭川を水路に瀬戸内海に出る便もあった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)29

     ただ灼けて取経の旅のつづきけり  

 「ボクの細道]好きな俳句(1074) 能村登四郎さん。「今年より吾子の硯のありて洗ふ」(登四郎) 今年から始めた、吾子(あこ)の「書初め」の始末でしょうか? 俳句作者のにかぎらず、父親は、或る日、突然に、父親らしき行動に出るものです。ブログ筆者も、81歳の、今、次女の長男(孫)の進路のことで必要以上に「口出し」をしています(汗)。

 

木魚歳時記 第3322話

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   第一章 山村の悲劇
(一) 播磨(はりま)の姫路からおいおいと美作(みまさか)へ向かえば、山地にかかり、中国山脈の外山のすそを縫って国府の所在地たる津山の南から那岐山(なぎさん)のふもとを西南に歩みつづけた末は、奥美作の高原地帯、真庭郡から四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)を下って隣国の日野郡に出る出雲街道は、大和朝廷が出雲との交通路として早くから開け、山陽と山陰とをつなぐ幹線となっている。その枝路に津山から岡山に抜けるのがある。
(佐藤春夫『極楽から来た』)28

      優曇華にもつとも近き求道僧   優曇華(うどんげ)

「ボクの細道]好きな俳句(1073) 能村登四郎さん。「寡作なる人の二月の畑仕事」(登四郎) 寡作(かさく)とは、芸術家などが年間少しの作品しか発表しない人を指していうようです。この寡作といわれる作家が、二月(農閑期)に畑仕事に精を出すというのですから変わっています。こうした作家が得てして優れた作品を残されることが多くあるようです。

 

  

木魚歳時記 第3321話

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 ともあれ、この手紙一つあればと思った定明の夢は空しく、彼はいつまでも都の武士にはとり立てられそうにはない。しびれをきらして宗輔から頼長にも頼んでもらったが、それでもらちがあかない。
 定明は額(ひたい)に押されたカインの烙印(らくいん)のため、常にびくびくした暗い性格の男と宗輔の家人仲間からも疎んじられた果ては、自暴自棄の身を都に横行する群盗の中に投じた。純撲(じゅんぼく)な山の若者は立身の道を絶たれて、三年の後、都の悪風に染みたのである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)27

      蜩の畢竟空と澄みわたる   畢竟(ひっきょう)

 「ボクの細道」好きな俳句(1072)  能村登四郎さん。「行く春を死で締めくくる人一人」(敏郎) 「死」詠うのは自由ですが、ここまでシビアに詠われると何にをか云わんや、と、そんな気もいたします。俳句に詠っていけないことはないのでしょうが、凡人が安易に真似るとる失敗します。「暮の秋あと十年は生きてやる」。これが失敗作(駄句)の例です(汗)。

 

木魚歳時記 第3320話

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 宗輔の家人になった定明は、待てど暮らせどいつまでも主人から何の沙汰もなかった。
 ほんのしばらくの間に時代は定国の時とは一変しはじめて、いまではもはや、武士にも派閥系統ができはじめ、権大納言をもってしても藤原氏では、ポッと出の若い田舎武者ををしかるべき場に割りこませるだけの力は無くなっていたらしい。それほど、武士の栄え出したのとは反比例して公卿(くぎょう)の威力が衰えはじめて、やがて武士が権力を張ろうとする時代の前兆がすでにぽつぽつ現われていたと見える。
(佐藤春夫『極楽から来た』)26

      まくなぎに一匹分の重さかな

 「ボクの細道]好きな俳句(1071) 能村登四郎さん。「数へ日の素うどんに身のあたたまり」(登四郎) やはり「うどん」は素(す)ウドンが一番です(そう思います)。「数え日」とは、「♪もういくつ寝るとお正月」。と、唄った12月のあの頃のことが懐かしい。そうした年末のお昼にいただく素うどんの美味しかったこと! 体の芯まで暖まる気がいたしました。

 

木魚歳時記 第3319話

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しかし定明は父が家出の前に一心に書いていたものがこの手紙や『法華経』であったと思いあたり、そうして去年の二百十日の風は旭川ぞいを、那岐(なぎ)の南を真庭から日野へ街道ぞいに吹き荒れて通り抜け出雲の大風になったと人々が語り伝えたのを思い起し、父は風に乗って果知らず吹かれて行ったのだと知った。父の手紙は定明に脱出して来た故郷の人々や弓削の庄のその後の消息をそぞろに思い出すよすがとなったが、また誤って人を討ったのではないかとの疑いもこの時生まれた。彼は叔父のいったとおり悪い夢を追ったのだと思い知った。
(佐藤春夫『極楽から来た』)25

     耕せば地虫いつぴき死にました

 「ボクの細道]好きな俳句(1070)  能村登四郎さん。「季すぎし西瓜を音もなく食へり」(登四郎) 旬(しゅん)の物はうまい。とりわけ炎天の下で、冷えたスイカを食するの美味しい。行儀作法などおかまいなしに音立てすするのがうまい食い方であります。しかし、季節外れの西瓜(すいか)ともなればこれは別なのでしょうか? それとも、「季すぎしスイカ」に、作者は、何か、比喩的な意味を伝えたいのでしょうか(汗)。

 

木魚歳時記 第3318話

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 「しばらく機会を待つがよい。よきに取り計らおう。それまでは家人(けにん)として当家に居るがよい」
といわせた。定明は日ごろ思っていた父の手紙を見たいと頼むと宗輔は、
「子の情として父の最後の手紙はさぞ見たかろう。差支えない。ゆるす。」
と、侍女をして定国の手紙を定明に渡させた。
 定明は読み入った。出雲の津とはどこの港やら、父がどういう手段んでそんな帆船を手に入れたものやら、霊夢の事や懇願の情などが事細やかにつぶさに記されているのにくらべて、北海へ乗り出した事はあまりに言葉短かで、もどかしくも一切が不明であった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)24

     相克の闇に血を吐く慈悲心鳥   相克(そうこく)

 「ボクの細道]好きな俳句(1069) 能村登四郎さん。「弟子となるなら炎帝の高弟に」(登四郎) わかります。ボクは決めました。俳句の弟子となるなら、能村能村登四郎さんの弟子である 正木ゆう子さんの俳句道場に入門したい。そして、俳句を基本から学びたい。といっても、これは、未来、はるか彼方のお「浄土」にあると聞く? 「ゆう子俳句道場」のことです(汗)。