凍鶴や 私語憚るる 夕まぐれ
「自己認識」について。<触れる>とは、皮膚を通して自己と自己以外が接触することです。そのことで、さまざまな情報を取得し、それらを比較して「自己認識」つまり自分自身を知るのです。
自身の、顔や、口や、手足の具合はどうか?自分の心臓や、胃の働きはどうか?また、自分は何を考え、何をしようと考えているのか?自身の精神構造のことも気になります。これを解消するためには、自己と自己以外を比較して「自己認識」する必用があるのです。
「おなじ釜の飯を食う。」の言葉があります。そしてこれは、自己と他者の<触れあい>を成熟させる絶好の機会と考えられています。でも、ぼくにはこの体験がありません。ですから触れあい未成熟のまま、つまり<子ども大人>のままで終わりそうです。どうかすると、満員バスでひょいと<触れて>しまっては…そこで手は吊り革に直立不動でいます。
「お降りに へなへなゆるむ 仏足石」