滅後十五年、嘉禄(かろく)三年六月、叡山の僧兵らが無残にも、法然の廟を破り墓をあばいて屍を鴨川に遺棄しようとした事があった。遺弟信空らが集まってこれを防ぎ、その夜遺骸を西山に移し、翌年粟生野(あおうの)に荼毘(だび)した。(佐藤春夫 付録章…
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