泰衡は義経の首級を六月十三日に鎌倉へ進めた。しかし首級はこの時既に腐爛(ふらん)して相貌の弁別もよくできなかったのを口実として、頼朝は怠慢を責め、院宣の下がるのをも待たず、七月十九日泰衡討伐軍を進発した。八月二十一日泰衡は平泉の館を焼いて…
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