(四)平家はこのころ、源氏の内輪喧嘩の隙を利用してこっそりと再び福原に忍び寄り、生田の森を東門とし、一の谷を西門として行宮(あんぐう)を営む用意がある、機を見て都へも攻め上らんず勢いであったが、義仲はあっさりと戦死し、平氏追討の院宣は直ち…
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