妻栄子は夫亡き後は院の女房として丹後局と呼ばれたが、今選ばれて鳥羽殿で君側に奉仕中、三年目には法皇との間に一女覲子(きんし・後の宣陽門院)を生んだ。これもまた容易ならぬ才女で稀有(けう)の女政治家であった。法皇の晩年まで奉仕して摂政や関白…
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