関白忠実は閑院家の栄達を見、また天皇が、必ずしも軽はずみなお方でもなかったのを知って、後年は白河法皇の仰せに従って泰子を進めなかったのを悔いていた。天皇の方でも璋子にあきてか泰子を入内せしめたい思召しがあった。 そこで保元元年、法皇が熊野へ…
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