木魚歳時記

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木魚歳時記 第3642月

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 しかし戒も定も慧も、どの一つとして満足にそなええることもできそうにないわが身ではないか。これを成就した古人があったのも、むしろ不思議と思うほどの至難事ばかりである。身をこんな愚か者だとは今日の今まで知らなかった。と彼はいたすらに恥じ入りつつ師の皇円にそれを語ると、師匠は、
(佐藤春夫『極楽から来た』)343

      わび助の二つ咲きたり山の寺

 「ボクの細道]好きな俳句(1393) 安住 敦さん。「雪の降る町といふ唄ありし忘れたり」(敦) 有名な童謡です。しかし、正確に復唱することは出来そうでできない。そのことを「忘れたり」と言い切ったところが秀逸です。この作者のすきなのは、「難しいことを易しく。易しいことをより深く。より深いことを楽しく」(井上ひさし)を、現実の作品に示されることです。言い易くして出来難いことです。

 

木魚歳時記 第3641話

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(四)少年老い易く、わが身もも早十八になった。そうして三人の師匠のねんごろな指導のおかげで、どうやら三台部も読んだ。そうして仏教修行の大要は戒定慧(かいじょうえ)の三つにあるようなと合点した。
(佐藤春夫『極楽から来た』)342

       老木にまといつきたる葛の花

「ボクの細道]好きな俳句(1392) 安住 敦さん。「ある晴れた日につばくらめかへりけり」(敦) ボクの場合は、ありがままのことを、ありがままに表現することができません。たいてい「こねくりまわして」なにがなんだかわからない俳句にしてしまいます。それと、揚句のように「詩情」が生まれません。これは決定的な凡人の証明です(汗)。
 

 

木魚歳時記 第3640話

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 三大部と取り組むこと三年、三人の師匠はこの若い弟子の理解の早さ深さに驚いて、全山中智慧第一とこれをたたえた。弟子にとっては三人の師匠の称讃は、むしろ嘲笑のように聞きなされた。というのは三年間の学習の結果、彼の身の無能以外は何一つ学び得たところは無いと思ったからである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)341

       性悪の鴉ごろごろ酉の市  酉(とり)

 「ボクの細道]好きな俳句(1391) 安住 敦さん。「蓑虫の出来そこなひの蓑なりけり」(敦) 蓑虫のミノに上等とそうでないのがある? もとより、蓑虫は「身の丈に合ったもの」をミノの材料に選ぶはずです。ですから「出来そこなひ」かどうか? それは人間本位の価値判断なのでしょう。ところで、ボクは、万事、ぼくのことは「ほっといて」と、自我流を押し通し『あかん男』(田辺聖子)と成り果てました。嗚呼(汗)。

 

木魚歳時記 第3639話

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 『止観』の説き教えるところはやかましくむつかしかったが、いい方の美しさによってなつかしく柔げられているのが尊かった。それだけに含蓄の多いニュアンスゆたかな文章は少年にとっては底の底までは汲み取れないような不安心のため、彼は読み返し考え直し、くり返しているうちについ暗証するまでになった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)340

      月を盗る話などしてはしご酒

 「ボクの細道]好きな俳句(1390) 安住 敦さん。「ナフタリン痩せ夏休み半ば過ぐ」(敦) ナフタリンは外出用の衣類につく虫を防ぐために使用するようです。「ナフタリン痩せ」とは? 夏休みを利用して旅行に出るわけでもなく、ゴロゴロ家で過ごすうちにナフタリンだけは細って行く・・すでに夏休みは半分も過ぎようとしております。

 

木魚歳時記 第3638話

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 「多くを読み多く考えよ。読むことと考えることの二本立てが必要だ。読むだけで考えなければ頭は鈍る。考えるだけで読まないでのひとり合点は危っかしいというのが孔子夫の学ぶ者への注意である」
 というのが、以前に観覚が幼い弟子たる甥の頭に植えつけた読書法であった。少年は今もなお叔父の法師の言葉を忘れてはいなかった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)339

      数え日やどうにもならぬこともある

 「ボクの細道]好きな俳句(1389) 安住 敦さん。「啓蟄の庭とも畠ともつかず」(敦) 本格的な農園ではない? 自宅の周辺の庭つづきに菜園をこしらえておられる? 何らかの事情があって、菜園の世話が怠りがちとなり「庭とも畠ともつかず」の状況となりつつあります! それでも自然は偉大です。春ともなれば「啓蟄」(けいちつ)の行為は変わりなく見られます。

 

木魚歳時記 第3637話

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 つまり『摩訶止観』は仏弟子たる者の実践すべき日常生活を、一挙手一投足の末まで説いている。そうした仏教の根本たる定(じょう)と慧(え)の刻々あるべき姿を、すなわち生活に直結した仏教をこの書ほど事細かに条理を尽くして論じたものはないと思われた。
(佐藤春夫『極楽から来た』)338

      母と子の二人だけゐる小鳥の巣

 「ボクの細道]好きな俳句(1388) 安住 敦さん。「でで虫や父の記憶はみな貧し」(敦) ボクは、父とキャッチボールした、公園で遊んでもらった、遊園地に連れて行ってもらった・・こんな記憶はありません。同様にボクも、息子にそうしたことをしてあげた記憶がありません。お寺の環境(土・日・祭日に仏事がある)と言ってしまえばそれでお終いです。それは言いわけです。子供たちにすまないことであったと懺悔しています。

 

木魚歳時記 第3636話

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 この書の題になっている止観という語は妄念を断つという意味で、この書の内容は止観を定(じょう・心を集中し静めること)と慧(え・ものの真相を見抜いて迷わず疑わぬ智力)の作用として、観心(かんしん・自分の本性を見定めること)と観法(かんぽう・宇宙を支配する根本法則を会得すること)の修行法と、妄念を断つこと教えたものであった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)337

      郭公は小楢の林が好きなのよ 楢(なら)

 「ボクの細道]好きな俳句(1387) 安住 敦さん。「しぐるゝや駅に西口東口」(敦) 代表作です。見知らぬ土地の見知らぬ駅に降り立つと、今のようにナビのない時代です。目的地に向かうのに、駅の西口に出ればそれとも東口に? おりから外はしぐれているようです。ともかく、西口に向かうことにいたします。と、まあ散文で書くとこうなります。さて、昨夜はご縁で頂戴した「駿河しゃも鍋」を賞味させていただきました。美味しかった。ありがたいことです(満)。