木魚歳時記 第3756話 

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 しかし真の求道者が世に絶えたわけではない。
 法然のころからは二百年ばかりさかのぼるが、将門(まさかど)の乱が都に伝えられて朝野が上を下への大騒ぎの最中のこと、身に粗末な黒衣をまとい、金剛草履(こんごうぞうり)に竹の杖の遊行僧(ゆぎょうそう)が市内を徘徊(はいかい)しはじめた。そうして市民たちに南無阿弥陀仏の念仏を教えて歩くので市民には阿弥陀聖(あみだひじり)と呼ばれていた。
(佐藤春夫『極楽から来た』)450

        つむじ風ひらりと交はす黒揚羽 

「ボクの細道]好きな俳句(1506) 阿部完市さん。「草のなかでわれら放送している夏」(完市) 村の運動会でしょうか? テントも、机も、イスも、放送機材も、みんな草原に置かれてある・・野原か河川敷で行われる運動会の映像が思い浮かんできます。折から炎天の真っ最中であります。

(序)影像の狩人8 さて、頭のなかをいっぱいにして家へ帰って来ると、部屋のランプを消しておいて、眠る前に永い間、それらの影像(すがた)を一つ一つ数え挙げるのが楽しみだ。

 

木魚歳時記 第3755話 

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 しかし出家を迎える山林も今は俗世間と何の変わりもなかった。門閥がものをいうから、関白の息子なら十五の少年でも少僧都(しょうそうず)になれる。武力がここでもはびこりはじめている。彼らの生活を見るに、出家といい遁世(とんせい)といいながらも、実は世間並みの欲を満たすためにしかすぎない。真に道を求め遁世するために彼ら出家は再出家して、寺院領でないほんとうの山林に入らなければならない。 

  これをこそまことの道と思ひしをなほ世を渡る橋ぞありける

と歌って得脱上人も笠置(かさぎ)の山にかくれたのであった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)449

       馬が居てごくごくと飲む春の水 

 「ボクの細道]好きな俳句(1505) 阿部完市さん。「雲雀とほし木の墓の泰司はひとり」(完市) 「泰司」とだけ記(しる)された木の墓標(新仏か?)がぽつりと立っております。そほかに見わたすかぎり音もなく動くものもない。遠くで雲雀が昇るそのときの声だけが響いてきます。ということでしょうか? 

 (序)影像の狩人7 林の外へ出ると、ちょうどいま沈もうとする太陽が、その燦然(さんぜん)たる雲の衣裳を地平線の上に脱ぎすて、それが入れ交り折り重なってひろがっているのを、いっとき、眼がつぶれるほど見つめている。


 

 

木魚歳時記 第3754話 

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 社会的混乱に日常生活は困難となり、精神生活は不安となる。
 日常生活の困難と警察力の不備とは家柄が賤しくて立身の道を塞がれた自暴自棄の若者たちを駆って強盗の群れに入らしめた。精神生活の不安は、門閥なくして反省力のある優秀な青年たちを多く出家せしめた。同じ時代の同じ青年たちにもこう明暗はあった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)448

        月ヶ瀬の峰谷川や紅白梅

「ボクの細道]好きな俳句(1504) 阿部完市さん。「一月二月丸暗記しています」(完市) 「一月二月」と「丸暗記」の措辞がどのようにつながるのか? アベカンさんの本領発揮となる作品です。けど、それでいいのです。俳句は文芸ですから、作者が自信をもって書かれたことですから! 読者は好きに読み取ればいい。ボクはそう考えています。

(序)影像の狩人6 やがて、興奮のあまり気持ちが変になってくる。何もかもはっきりしすぎる。からだの中が発酵(はっこう)したようになる。どうも気味がわるい。そこで林を出て、鋳型(いがた)作りの職人たちが村へ帰って行く。その後ろを遠くからつける。

 

木魚歳時記 第3753話 

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 や紀綱がすべてゆるんだなかで、当時の社会の門閥尊重の制度ばかりは厳格に守られていた。従って頽廃した上層部が比較的健康な下層を支配する不合理を来した。
 頽廃者が権力を握る社会が健全であろうはずがない。将門(まさかど)や純友(すみとも)の承平天慶の乱というのは、こういう現象のために起こったものであった。それはやがて時代の大逆転の前兆でもある。
(佐藤春夫『極楽から来た』)447

       断崖にアイリスの花いちめんに 

 「ボクの細道]好きな俳句(1503) 阿部完市さん。「白菜やところどころに人の恩」(完市) 「白菜を剥けばますます柔らかし」(木魚)ではそのまんま・・バベカンサンの「人の恩」とのとりあわせねより俳句となるのでしょうか? わかっているけど、ボクにはできません。凡人の凡人たる所以です。

 (序)影像の狩人5 それから、彼は林のなかにはいる。すると、われながらこんな繊細な感覚があったかと思うようだ。好い香いがもう全身にしみわたり、どんあ鈍いざわめきも聞き逃さない。そしてすべての樹木と相通じるために、彼の神経は木の葉の葉脈に結びつく。 

木魚歳時記 第3752話 

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 決起は一挙であったが、由来するところは遠く深い。貴族社会は道長時代を頂点として追々と頽廃(たいはい)しはじめ、社会の上層部最高の貴族たる天皇家をも含めて秩序も風儀も次第にみだれていた。
 この頽廃は地方荘園の生産力による消費生活のためである。生産なしに消費する生活は頽廃するにきまっている。
(佐藤春夫『極楽から来た』)446

       花散るや道に子育て地蔵尊 

「ボクの細道]好きな俳句(1502) 阿部完市さん。「馬が川に出会うところに役場あり」(完市) 川があり、橋が架かり、舟が着き、人でにぎわうところに、やがて町となり役場も生まれました、散文で書くとこのようになるところを17文字にするのが短詩形の特色です。そこで「馬」を登場させたところがこの作品のミソです。

 (序)影像の狩人4 彼は動く麦畑の影像の(すがた)を捕らえる。食欲をそそる苜蓿(うまごやし)や、小川に縁どられた牧場の影像の(すがた)を捕らえる。通りすがりに、一羽の雲雀(ひばり)が、あっるいは鶸(ひわ)が飛び立つのをつかまえる。 

 

木魚歳時記 第3751話 

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 もう少し下世話にいえば、あの乱は、隠居と本家との支配権の対立に、隠居の愛妾(あいしょう)と本家の若旦那とが争うなかに両家の番頭が飛び込んでかえって談合を困難にし、収拾のつかなくなったところで双方から両家の腕自慢の下男が出て腕力沙汰でけりをつけた。その働きによって、下男たちは番頭に格上げ、番頭どのは自然と格下げとなり、武家と貴族たちとの地位は、この時、一挙に逆転した。
(佐藤春夫『極楽から来た』)445

       風見鶏さくら吹雪の真ん中に

 「ボクの細道]好きな俳句(1501) 阿部完市さん。「夕焼けビルわれらの智恵のさみしさよ」(完市) 夕焼けに照り映えるビルの美しさは圧倒的です。人智を超えた大自然のドラマチック・エモーショナル(感動の世界)です。そのことと、人智「さみしさよ」との対比が伝わります。

 (序)影像の狩人3 それから今度は小川の影像の(すがた)をつかまえる。それは曲がり角ごとに白く泡だちながら、柳の愛撫(あいぶ)の下で眠っている。魚が一匹腹を返すと、銀貨を投げこんだようにきらきら光り、細かい雨が降りだすと、小川は忽(たちま)ち鳥肌をたてる。

 

木魚歳時記 第3750話 

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   第九章 ひじりたち

(一)保元の乱というのは、単純に見れば美福門院と待賢門院の亡霊との争いである。それに高陽院の進退によって派生した摂関家の不和が加わって事面倒になった。みな鳥羽天皇のおん色好みのいたすところである。
 生きているだけに美福門院の勝ちであったが、亡霊に遠慮する意味のあった中間的存在の雅仁新王に別の利用価値もあって、後白河天皇が浮かび上ったのである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)444

        春風の来てトントンと戸を叩く 

 「ボクの細道]好きな俳句(1500) 阿部完市さん。「夏終る見知らぬノッポ町歩き」(完市) 阿部完市さんの俳句はうかつには読めません。なぜなら、独創的ですしさらに発想が飛躍するところがあるからです。ですから、注意深く読むつもりですが、独断が過ぎるところはご容赦ください。掲句はなんのこともない。海外(外国人)の街ですから、自分以外は、皆、背が高い・・

(序)影像の狩人2 彼はただしっかりと眼をあけてさえすればいいのだ。その眼が網の代わりになり、そいつにいろんなものの影像(すがた)がひとりでに引っかかって来る。 最初に網にかかる影像(すがた)は、道のそれである。野梅と桑の実の豊かに実った二つの生垣に挟まれて、すべすべした砂利が骨のように露出し、破れた血管のように轍(わだち)の跡がついている。