写真は山茶花(11月)です。さざんかにも二季咲きがあるのでしょうか? さて「本願」(ほんがん)とは、衆生を救済しようとする仏の<願い>であります。
とりわけ、極楽浄土のアミダ仏の「本願」は、「アミダ仏の御名を唱えて、すなわち、念仏する衆生を摂取して捨て給はず」とあります。なにも難しいことはありません。わたしたちはそれを信じて、ひたすらアミダ仏を念ずる(念仏する)だけで極楽浄土に「往生」(おうじょう)ができるのです。前項で「他力」(たりき)について話をしました。ここで大切なのは、アミダ仏の衆生に対する「本願」というベクトル(→)と、衆生がアミダ仏を恋慕して「念仏」するというベクトル(←)が一体となるところに「他力本願」(たりきほんがん)としての真価が生まれるのです。