2013-12-25から1日間の記事一覧

木魚歳時記 第591話

「愛」という人間にとって最も基本的な行為とのかかわりの中で、仏教の実践として最も重要とされる「慈悲」について考えてきました。 私たち人間にとって「自分が愛おしい」という気持ちはごく素直な気持ちでしょう。仏教では「自分が愛しいものであるがゆえ…

木魚歳時記 第590話

『観無量壽経』(かんむりょうじゅきょう)という経典の中に「仏心とは大慈悲、是れ也」とあります。すなわち「慈悲」とは、仏教そのもの、いや、仏そのものといってもいいでしょう。 また『維摩経』(ゆいまきょう)という経典の中には「衆生病むがゆえに我…

木魚歳時記 第589話

煩悩として排除されない愛、つまり「慈悲」(じひ)について考えましょう。この慈悲の語源は、サンスクリット語のマイトリー(友愛)とカルナー(悲)の混成にあるとされます。 すなわち、慈悲とは「抜苦与楽」(ばっくよらく)、つまり「他者に安楽を与える…

木魚歳時記 第588話

二つ目は、サンスクリット語の<トゥリシュナ>です。この原義は<渇き>とされます。人はのどが渇いたとき水を飲まずにはいられないように<渇き>は、人間の最も根源的な欲望を指します。 仏教にも<渇き>が取り入れられ、それは、仏教の根幹的な教えであ…

木魚歳時記 第587話

「愛」を煩悩とみる代表的な例を二つあげてみましょう。その一つは、サンスクリット語の<カーマ>を語源とする愛についてです。 カーマとは<愛欲>と訳されます。カーマの原義は<欲求>の意味でありますが、仏教では、しばしば<愛欲>と訳され、煩悩の一…

木魚歳時記 第586話

仏典に現れる「愛」について考えましょう。仏典に現れる「愛」は、大きく分けて二種類あります。 ①煩悩の汚れをおびた「愛」と、②煩悩の汚れをおびない「愛」の二種類です。前者は「愛」を煩悩そのものとする考え方です。仏典の中で、しばしば、恩愛、割愛、…

木魚歳時記 第585話

儒教(中国)における<愛>について。孔子は「仁」とは人を愛するなり。といっています。すなわち、人を愛する仁は、己を正す「義」とともに儒家の強調するところでありました。 「仁」は、無差別の博愛ではありません。それは、まず家族を愛し、つぎに国家…

木魚歳時記 第584話

「あなたたちも聞いているとおり「隣人を愛し敵を憎め」と命じられている。しかし、わしは言っておくが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。・・・・自分を愛してくれる人を愛したとしても、なんの報いがあろうか」(『新約聖書』) キリスト教…

木魚歳時記 第583話

愛の基本が「なにものかにひかれること」。と仮定とするならば「ある主体の、特定の対象にいだく、全体的または部分的な<合一>の欲求」。これが愛の定義となりうる。と考えることができます。 これを、ぼく流にいえば、もしかして、ぼくの目の前に好ましい…

木魚歳時記 第582話

人間の根源的な渇望を満たすものとして、仏教では「慈悲」(じひ)が説かれ、キリスト教では「愛」が説かれ、儒教(じゅきょう)では「仁」(じん)が説かれます。この「愛」を視野におきながら、仏教の説く「慈悲」(じひ)について考えてみましょう。 まず…