という阿弥陀仏四十八願の文が遠雷のように心にとどろいて出た。かねがね暗誦している文句がすぐに思い出されるのに不思議はないが、それと同時に法然は、さながら電光に打たれでもしたように、いつもとは全く違った感謝の念に打たれた。さながらに、阿弥陀仏の無量光をわが皮膚の上にじかに浴びたかのような実感であった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)751
狐火をトングでつかむ大僧正
「ボクの細道]好きな俳句(1830) 稲畑汀子さん。「書初の筆の力の余りけり」(汀子) 作者ご自身の体験でしょうか? それとも、お孫さんの書初(かきぞめ)を横で見ての作品でしょうか? ボクは、前者、つまり、作者ご自身の体験だと思います。それは「筆の力の余りけり」を作者の動作(比喩)と読んでこそ、いろんなことが想像できて面白いのです。
のせられて、のりゑ(得)させ、
こころ、われとしらずに、
なむあみだぶにしられたらこそ。
『定本 妙好人 才一の歌』(楠恭編)