「随喜」(ずいき)とは、随喜の涙を流して喜ぶ、といったように用いられます。もともとは、釈尊の説法を聞くことで、心の中に湧き出る喜び、それを指したものです。
空也上人が広められた「踊念仏」(おどりねんぶつ)はその典型といえます。長時間にわたり、念仏される信者のお姿を拝見すると、まさに「随喜」の観がいたします。ぼくは、おやじ(師僧)の念仏する声で育ちました。そのせいでしょうか、念仏をお唱えするときほど、心安まることはありません。こんなとき、脳波を測定すれば、ある特定の波形を示すのではないでしょうか。宗教から「随喜」「歓喜」の要素がなくなれば・・あとは薄っぺらなものです。