木魚歳時記

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木魚歳時記 第3312話

「きのう云うのを忘れていたが、手紙のほかに金子(きんす)もいくらか預かっている。必要ができたらいつでもいいなさい。そのほか何の相談にも乗ろう。預所のことでもわしで間に合うことなら、いくらでも手つだいからね」 とまずやさしく慰めた。そうして暗…

木魚歳時記 第3311話

(四) 昨日の叔父の言葉をまたもはっきりと思い出した定明は、それにつけ加えて、「そうしてそれっきり帰らないのか」と、ひとり言をいった。叔父から聞かされたあの思いがけない話に、この生別が死別であることを感じ取ったのである。 折から声もかけない…

木魚歳時記 第3310話

『お召しだから、おれはもう一度、天子さまにお仕えする。いいや、今日の北面(ほくめん)や院の武者所ではない。もとの天子さまが、北海で龍王になってござっしゃるのだ。そのお召しだからわしは是が非でも波を押し渡って行かなければならない。お前、定明…

木魚歳時記 第3309話

ただ定明の顔を見た叔父は、最初しばらく考えていたが、ついにいい出した。「実はおれも少々心配になって、お前のところに行ってみようと思っているところであった。この間来た時の、兄さまのいうところはちとふに落ちないふしがあった。(佐藤春夫『極楽か…

木魚歳時記 第3308話

定明の母は定明を産み落とすとすぐ産後のわずらいで死んでしまったが、母方には母の弟がまだ健在で家を継いでいた。家が少し遠いせいで、平素はあまり往き来もなかったが、父は義弟を頼もしい人物として実弟同様に時々ものを相談していたのを思い出して、自…

木魚歳時記 第3307話

山では場所によって、大小の木があるいは根こそぎになり、あるいは枝や幹が折れ傷つき倒れていた。しかし人間や鳥獣の倒れているのは一つも見かけなかった。定明は念のために山の洞へも行ってみた。 どこにももう父をたずねる所が無いような気がした時、定明…

木魚歳時記 第3306話

戸のすき間から夜が明けそめて来た。朝になると帰るかと思った父は午(うま)の刻になっても帰らなかった。定明は海のようにはげしく揺れ動きながら低く垂れさがった雲の下を先ず田の面に出て風害を見たが、稲はあまり倒れていなかった。しかし作の悪いこと…

木魚歳時記 第3305話

(三) それでなくてさえ父の行方を案じて眠れない定明を、二百十日の風は夜もすがら家や周囲の木々をゆるがして悩ました。 風を避けた地勢を選び建てられたこの家にこれほどの風が騒ぐのだから、風当たりのひどい山中などでは、どんなにかすさまじかろうか。…

木魚歳時記 第3304話

こうして幾日を経たろうか、一朝、山の木々がすさまじくざわめく風音に目ざえた定明は、起き出でて朝の支度をすまして父を待ったが、いつまでも起きてこない父を怪しみ、行ってみると父の臥所(ふしど)はもぬけのからであった。山の木々はこの日一日中、定…

木魚歳時記 第3303話

父からこの話を聞いた若者の定明はもとより、分別ざかりの定国もこの夢を霊夢と信じて少しも疑わなかった。そうして彼は、一人のさぶらひつく者もない主上のお側に早く行かなかった夢の中の自分の、波を押し渡る勇気のなかったのを恥じ悔いていた。 そのため…

木魚歳時記 第3302話

当時は、蛇体を、多分そのねけがらのためであろうか同じ形で生き変わり死に変わりして無限の生命を保つものと一般に信じられていた。それ故、解脱(げだつ)の困難に絶望した末に池の主の蛇体を志して弥勒菩薩の出現まで寿命を求めるため自ら池水に身を投げ…

木魚歳時記 第3301話

定国は御座に近く伺候(しこう)しようとあせりながらも波の上をわたる工夫をしているうちにお姿は消えてしまった。 しかし定国、定国とお召しのお声ばかりはいつまでも聞こえている。しかもそれは主上の在(おわ)した日のお声をさながらなのである。定国は…

木魚歳時記 第3300話

(二) 定国のある夜の夢は不思議であった。いつもおように内裏(だいり)や御所の滝口などにお出ましの主上ではなく、波がしらの立ち騒ぐ洋上にゆっくりと玉座(ぎょくざ)を構えた上に御座あらせた青い束帯(そくたい)のお姿で、天機うるわしく、「われは…

木魚歳時記 第3299話

定国は美作に帰って来て都大路よりも草深い田舎の少年のころから歩みなれた道の方をなつかしく歩みやすいものに思って、都の生活は日々にうとんじ忘れつつ、定明に農事を教え、利鎌(とがま)を与えて山沢を切り拓(ひら)かせていたが、恩顧をこうむった亡…

木魚歳時記 第3298話

しかし定国がまだ壮年で亡くなられた主君を追慕し追慕し奉る至誠のかげにも、一片の私心がないわけではない。彼の立身の途がこれで全く閉され栄達の夢が暗黒に葬られ去った絶望感をもたらせているのであろうと宗輔は宗輔らしくこれを聞いて定国に同情した。 …

木魚歳時記 第3297話

堀川天皇は末代の賢君といわれた方で、白川上皇のむつかしい院政の下にありながらも、ご自身の政務は決しておろそかにはなさらず上奏文なども一々お取り上げあって、夜中にご自身でお目を通され、ところどころには下げ紙をつけて「此の事尋ぬべし」とか「此…

木魚歳時記 第3296話

定国はまた手先の器用な人で、当年宮廷や上流社会で琵琶(びわ)とともに流行していた朝鮮笛や笙(しょう)の修造や細工などに巧みであったため、左大臣頼長の一門でその一味の権大納言藤原宗輔(ごんなごんふじわらのむねすけ)に召されてお出入りになって…

木魚歳時記 第3295話

序章 夢を追う人々(一) 明石定明(あかしのさだあきら)は定国(さだくに)の一子で、美作国(みまさかのくに)(現在の岡山県)久米郡南条稲岡の庄(現在の久米南町)に隣接した弓削(ゆげ)の庄の預所(あずかりどころ)であった。 その父定国は、もとこ…

木魚歳時記 第3294話

はじめに 佐藤春夫著『極楽から来た』は、昭和35年6月22日より朝日新聞夕刊に発表されました。昭和36年に講談社から発刊、平成23年の法然上人800年大遠忌(おんき)に浄土宗より新版『極楽から来た』として復刊されました。文豪による「法然上人伝」です。紙…

木魚歳時記 第3293話

「今日のことば」 余は、がぶりと湯を呑んだまま 槽(ゆぶね)の中に突立つ。 驚いた波が、胸へあたる。 温泉(ゆ)の音がざあざあと鳴る。(後略) (夏目漱石『草枕』)抄29 おわり 「ボクの細道」好きな俳句(1044) 星野立子さん。「桃食うて煙草を喫う…

木魚歳時記 第3292話

「今日のことば」 輪郭は白く浮き上がる。 今一歩踏み出せば、せっかくの嫦娥(じょうが)が、 あはれ、俗界に堕落せんと思う刹那、 白い姿は階段を飛び上がる。 (夏目漱石『草枕』)抄28 「ボクの細道」好きな俳句(1043) 星野立子さん。「青麦に沿うて歩…

木魚歳時記 第3291話

「今日のことば」 室を埋むる湯煙は、埋めつくしたたる後から絶えずに湧きあがる。 虹の世界が濃(こまや)かに揺れる中に 真白な姿が雲の底から浮き上がる。 その輪郭を見よ。 (夏目漱石『草枕』)抄27 「ボクの細道」好きな俳句(1042) 星野立子さん。「…

木魚歳時記 第3290話

「今日のことば」 余が面前に娉婷(ひょうてい)とあらわれたる姿には、 神代(かみよ)の姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。 (夏目漱石『草枕』)抄26 「ボクの細道」好きな俳句(1041) 星野立子さん。「午後からは頭が悪く芥子の花」(立子…

木魚歳時記 第3289話

「今日のことば」 女の影は遺憾なく、余が前に、はやくもあらわれた。 黒髪を雲と流して、有らん限りの背丈を、すらりと伸ばした 女の姿を見た。 (夏目漱石『草枕』)抄25 「ボクの細道」好きな俳句(1040) 星野立子さん。「春たのしなせば片づく用ばかり…

木魚歳時記 第3288話

「今日のことば」 人体の骨格については、視覚が鋭敏な方である。 何とも知れぬものの一段うごいた時、 余は、女と二人、風呂場の中に在ることを覚った。 (夏目漱石『草枕』)抄24 「ボクの細道」好きな俳句(1039) 星野立子さん。「父がつけしわが名立子…

木魚歳時記 第3287話

「今日のことば」 黒いものが一歩を下に移した。 踏む石は天鵞毯(びろうど)のごとく 柔らかと見えて、足音を証にうごかぬようだ。 輪郭がすこし浮き上がる。 (夏目漱石『草枕』)抄23 「ボクの細道」好きな俳句(1038) 星野立子さん。「たはむれにハンカ…

木魚歳時記 第3286話

「今日のことば」 階段の上に何物かがあらわれた。 広い風呂場を照らすものは、 ただ一つの小さな釣り洋燈のみである。 確(しか)と物色はむつかしい。 (夏目漱石『草枕』)抄22 「ボクの細道」好きな俳句(1037) 星野立子さん。「ひらきたる春雨傘を右肩…

木魚歳時記 第3285話

「今日のことば」 誰か来たなと、身を浮かしたまま、 視線だけを入口に注ぐ。 しばらくは軒(のき)をめぐる 雨音のみが聞こえる。 (夏目漱石『草枕』)抄21 「ボクの細道」好きな俳句(1036) 星野立子さん。「何といふ淋しきところ宇治の冬」(立子) な…

木魚歳時記 第3284話

「今日のことば」 余は湯槽のふちに仰向けにの頭をささえて、 透き徹(とお)る湯のなかの軽きからだを、 できるだけ、抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。 ふわりと、魂が浮いている。 (夏目漱石『草枕』)抄20 「ボクの細道」好きな俳句(1035) 山西雅子さ…

木魚歳時記 第3283話

「今日のことば」 寒い。手ぬぐいを下げて、湯壺へ下る。 すぽりと浸かると乳のあたりまで這入る。 たちこめた湯気は天井を隈なく埋めて、 心地よい。 (夏目漱石『草枕』)抄19 「ボクの細道」好きな俳句(1034) 山西雅子さん。「川底の木の葉ふたたび流れ…