木魚歳時記 第3763話 

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 慶滋保胤は当時、陰陽暦数(おんみょうれきすう)の権威として代々朝廷に重用されていた名門加茂忠行(かものただゆき)の次男である。父祖歴代の陰陽の業の迷信的愚劣を知って父祖の業をつがぬ罪を謝して姓を自ら慶滋の文字に改め、道真(みちざね)の孫菅原文時の門に入って文学者となった先駆的インテリであった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)457

       青梅の落ちて悔しい花一文目

「ボクの細道]好きな俳句(1513) 阿部完市さん。「ごはん食べて母ていねいに生きにけり」(完市) これはわかりやすい。さすがのアベカンさんも、お母さのことになると無心に詠われます。ボクも、このごろ、ごはんをよく噛んで食べます。ことさら長寿を願うわけでありませんが、なんだかありがたいからです。

 雌鶏(めんどり)6 彼女は神経痛にかかった人間みたいに、硬直した脚を高くもち上げる。そして、指を拡(ひろ)げて、そのまま音のしないようにそっと地べたへつける。 まるで跣足(はだし)で歩いているとでも言いたいようだ。
 

 

木魚歳時記 第3762話 

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 一般の市民たちは上人が奇特を現してのち、初めて上人の真価を知るに至ったが、慶滋保胤(よししげのやすたね)のような心あるインテリは、上人の菩薩行に対しては夙(つと)に注目して、この一介の乞食僧に真の求道者を見、生きた仏教を識(し)って、これを「市の聖」(いちのひじり)とあがめたものである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)456

       往来の魚に抱きつく蛙かな  魚(うお)

「ボクの細道]好きな俳句(1512) 安部完市さん。「いたりやのふいれんつええとおしとんぼ釣り」(完市) イタリアのフエレンツェ? 問題は「いとおし」です。わかりません。そこで、ボクは「愛おし」の音便読み(えとおし)? かと思いましたが、これは無理でしょう。まあ、いろいろ想像をたくましく読むことも楽しいものです。

 雌鶏(めんどり)5 時々、ふっと立ち止る。
 赤いフリージア帽を頭に載せ、しゃんとからだを伸ばし、眼つき鋭く、胸飾りも引き立ち、彼女は両方の耳で代わるがわる聴き耳を立てる。
 で、別に変ったこのもないのを確かめると、また餌を捜し始める。  

 

木魚歳時記 第3761話 

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 そうして上人襤褸(ぼろ)をまとうて居られるのが決してシラミはたからないとか、どことやかの池で蛙を呑もうとしていた蛇を戒めると、蛇は蛙を吐き出したとか、上人に関してさまざまな伝説を伝えひろげはじめたものである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)455

       春曙やはじけるやうなパンを焼く 

「ボクの細道]好きな俳句(1511)  阿部完市さん。「ねぱーるはとても祭で花むしろ」(市) 作者は外国の各で俳句を詠まれることが多いようです。「ねぱーる」(ネパール)の「桜」とは? まして「花筵むしろ」とは? 大変に興味のあるところです。また「とても」(副詞)の使い方がユニークです。

 雌鶏(めんどり)4 それが済むと、あたりに散らばっている餌(えさ)を拾いにかかる。
 やわらかい草は彼女のものである。それから、虫も、こぼれ落ちた麦粒も、彼女は啄(ついば)んで、疲れることを知らない。

 

木魚歳時記 第3760話 

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 しかし天暦(てんりゃく)五年の六月から七月にかけて都に疱瘡(ほうそう)が流行して死者を多く出した際、例の乞食僧は高さ一丈の十一面観音を造って、これを祈り、ついに疫病を終熄(しゅうそく)させて以来、これは容易ならぬ聖(ひじり)さまであ
ったと、市民たちの信仰を集めるようになった。
(佐藤春夫『極楽から来た』)454

       目交に上目づかひの春鴉  目交(まなかひ)

 「ボクの細道]好きな俳句(1510) 阿部完市さん。「とんぼ連れて味方あつまる山の国」(完市) 蜻蛉(とんぼ)の群れるような空の下には、とんぼ釣りの仲間があつまります。とんぼ釣りに興じる仲間のところには、不思議と、トンボも集まってくるのです。メルヘン(童話)の好きな作者です。まるで風の『又三郎』の世界です!

 雌鶏(めんどり)3 彼女の飲み物は水だけだ。
 彼女は皿の上でうまくからだの調子をとりながら、一口飲んではぐっと首を伸ばす。

 

木魚歳時記 第3759話 

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 常に阿弥陀仏の名号を高らかにとなえ、鉦(かね)を打ちならし、また竹の杖で腰のひょうたんをたたきながら、歓喜の情を表わし雀躍(じゃくやく)して都大路(みやこおおじ)を横行するするさまは、風狂人のようにも見えたので、人々は初めただ怪しげな乞食僧(こちじきそう)とばかりしか見なかったものである。
(佐藤春夫『極楽から来た』)453

        川さらさら風ふるふると春の昼

「ボクの細道]好きな俳句(1509) 阿部完市さん「すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる」(完市) すきとおる「そこ」とは? 霊の住むという洞窟(どうくつ)のことでしょうか? いや、もっと恐れ多い「聖なるところ」を指すのでしょうか? 想像するのは読者の自由です。太鼓を叩けば大丈夫です。祟(たた)られることはありません。

 雌鶏(めんどり)2 彼女は灰の上を転げ回り、灰の中にもぐり込み、そして羽をいっぱいに膨らましながら、激しく一羽搏(ひとはばたき)して、夜についた蚤(のみ)を振る落とす。
 それから今度は深い皿の置いてあるところへ行って、この前の夕立でいっぱいに溜(たま)まっている水を飲む。

 

木魚歳時記 第3758話 

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 若くから遊行を好んで、足跡五畿七道にあまねく、行く先々の道路や、橋梁、堂宇などを修復したり、水利を通じて井戸を掘り、野に捨てられた屍(しかばね)を一所に集めて焼くなどの公益事業に尽くしたといわれるが、何を感じてか、このごろ飄然(ひょうぜん)と都に現れて阿弥陀仏を説く。
(佐藤春夫『極楽から来た』)452

       こんな日も崖にひっそり水仙花  崖(がけ)

 「ボクの細道]好きな俳句(1508) 阿部完市さん「山ごーごー不安な龍がうしろに居り」(完市) これは突飛なように見えてわかりやすい。メルヘン(童話)のお話しとして受け止めることが出来ます。「山ごーごー」(擬音)の不気味さが、龍(想像上のいきもの)の影像とぴったりです。

 雌鶏(めんどり)1 戸をあけてやると、両脚を揃(そろ)えて、いきなり鶏小屋から飛び下りてくる。こいつは地味な装(よそお)いをした普通の雌鶏で、金の卵などは決して産まない。外の明るさに眼が眩(くら)み、はっきりしない足どりで、二足三足庭の中を歩く。
 まず眼につくのは灰の山である。彼女は毎朝そこでいっときの気晴らしをやる習慣になっている。 

 

木魚歳時記 第3757話 

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(二)アミダひじりは自ら空也(くうや)といったほか、身の上は少しも明かさなかったが、名を光勝といって、醍醐天皇の第五皇子とも、また仁明(にんみょう)天皇第八皇子常康(つねやす)新王の王子ともいわれる。
 この人は生来であったか、それとも疱瘡(ほうそう)などの結果であったか、手の指が親指のほかは四指がすっかりくっついて畸形(きけい)であったという。高貴な家系とそれにふさわしくない醜陋(しゅうろう)の身をはばかって身の上を語らなかったのかも知れない。
(佐藤春夫『極楽から来た』)451

       春の夜の外湯に浮かぶ白い肌 

「ボクの細道]好きな俳句(1507) 阿部完市さん。「鹿になる考えることのなくなる」(完市) 鹿になる? そこがアベカンさんなのありましょう。、一瞬、鹿は「馬鹿」の比喩かと? 下司なことを書いてしまいました。「鹿」は秋季ですから、「もの思う秋」への風刺でしょうか? ボクのようなことを考えるのが「下司の勘繰」りというのです(汗)。

(序)影像の狩人9 影像(すがた)は、率直に、思い出のままに蘇(よみがえ)って来る。その一つ一つがまた別の一つを呼び覚まし、そしてその燐光(りんこう)の群れは、ひっきりなしに新手が加わってふえてゆく・・・あたかも、一日じゅう追い回され、散り散りになっていた鷓鴣(しゃこ)の群れが、夕方、もう危険も去って、鳴きながら畔(あぜ)の窪(くぼ)みに互いに呼び交しているように。