木魚歳時記 第3581話

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 と、うす霞むなかへ進み入る馬を遠く見送りながら、
「あの者は、山に三十人あまりの僧兵のうちの頭立つもので、勇気もあり、心利いて、それに九州から来たのだから旅慣れてもいる」
(佐藤春夫『極楽から来た』)284

      いつかまたもとのかたちにあめんばう

 「ボクの細道]好きな俳句(1331) 山口誓子さん。「扇風機大き翼をやすめたり」(誓子) 扇風機の止っているところを詠んだ俳句はかなりあります。羽根が回転することで、扇風機は扇風機たる存在価値があるわけです。その扇風機が「羽根を休めた」ならば、風は止まる、この逆の発想でいろんな思いが描けるのです。

木魚歳時記 第3580話

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「乗りも習わぬ馬で都まで・・」
と、いわせも果てず、観覚は、
「大丈夫ですよ。はじめてのようでもない。もうしっかり馬に乗っています。それに、あの者をつけてさえおけば」
(佐藤春夫『極楽から来た』)283

      しばらくは流れのままにあめんばう

 「ボクの細道]好きな俳句(1330) 山口誓子さん。「海に出て木枯帰るところなし」(誓子) 「木枯」(こがらし)を詠んで、これほど「木枯」の本意をとらえた作品も少ない。「帰るところなし」の措辞が、読者の心の奥にグイグイ入り込んで来ます。さて、今年の暑さにはうんざりしました。ところが急に涼しくなる、というより寒いくらいで、みなさま風邪などお召しにならないように・・

木魚歳時記 第3579話

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 塵(ちり)を蹴って勇む駒のひづめの音も次第に聞こえなくなり、馬上の姿は一度見返って笑顔を見せたようであったが、刻々に遠ざかって行く。それをじっと見送りながら、「この大きくなったすがたをせめて人目、父親にも見せたかった」
と、その子の母は目がしらをちょっと指で押さえてから、弟をふり返り、
(佐藤春夫『極楽から来た』)282

      とつぜんに青大将の話など

 「ボクの細道]好きな俳句(1329) 山口誓子さん。「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」(誓子) これも代表句です。山口誓子さんの俳句は、そのほとんどが名句といえるくらい作品の粒がそろっております。17文字の隅々まで、作者の神経が行き渡っています。その完成度の高さ、そこが俳句の神さまと称される所以です。

木魚歳時記 第3578話

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 観覚は懐中にしていた書状を馬上の少年に、
「しかと持てよ」と、手渡した。
「シー」と、いわれて駒は動き出す。
うららかな日射しを右肩から浴びて進み行く少年はうしろ姿をたくましく馬上ゆたかに見えた。
(佐藤春夫『極楽から来た』)281

      雪豹の三毛猫となる進化論

 「ボクの細道]好きな俳句(1328) 山口誓子さん。「ゆるやかな水に目高の眼のひかり」(誓子) おだやかな自然詠の作品です。こうした抒情的作品は誓子さん俳句には少ない? でも、「易しいことをより深く」。つまり、「目高の眼のひかり」のあたりの鋭さに、何か深いものを訴えるように思えて心に残る作品です。

木魚歳時記 第3577話

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(三)従者はころあいを見はからい、ていねいな一礼をしてから、
「では、間違いなくお共致して参ります。馬の鞍も津山あたりで手にいれましょう。どうぞ何事もご心配なく」
(佐藤春夫『極楽から来た』)280

      汗だくの鴉ごろごろ鳴いてゐる

 「ボクの細道]好きな俳句(1327) 山口誓子さん。「炎天の遠き帆やわがこころの帆」(誓子) これも代表句の一つでしょう。炎天の砂浜に立って遠く水平線をゆく白帆を眺めておられるのでしょう。灼熱の大地(この世の煩悩)と紺碧の海原(悟りの境地)の対比を詠われた? そのように読むならば、さらに奥行きの深い一句となるのかも・・

木魚歳時記 第3576話

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 用意万端はできていたからただちに出発となり、従者は右手に馬の口を取り、左手に騎者を抱き上げて馬の背に押しやる。馬上の少年と見送る母や師匠、里人たちと見上げ見下ろしつつ、尽きぬ別れを口々に短く交わしている。
(佐藤春夫『極楽から来た』)279

      いまのあれ夏の夜汽車の汽笛だろ

 「ボクの細道]好きな俳句(1326) 山口誓子さん。「長時間ゐる山中にかなかなかな」(誓子) 独り山中にあって、ときおり聴くのはカナカナ蝉の声のみ・・何か、悟りきった禅坊主でもなったような気がいたします。これと対照的に、爺さんになっても桃尻の娘に目線のゆく某氏Sなど、軽薄短小・下品下生(げぼんげしょう)の標本です。「かなかなに釣られてたどる桃源郷」(木魚)

木魚歳時記 第3575話

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 「わけをいって探していると、もとは漆家の家人でお世話になったからという者が、これをはなむけに差し上げたいと申し出たのを無理に金を取らせて、曳いて来たのです。試に乗ってみましたが大した駒です。これなら長の道中も大丈夫。わたくしも安心致しました」と、従者も興奮している。
(佐藤春夫『極楽から来た』)278

      万緑をつきぬけ登山列車かな

 「ボクの細道]好きな俳句(1325) 山口誓子さん。「かりかりと蟷螂蜂の皃を食む」(誓子) 皃(かほ)とは、蜂の顔のことです。螳螂(かまきり)が蜂の頭から齧り始めた、その瞬間を詠んだ作品であります。ところで、ボクは子どものころ、世界は「諸行無情」だと思い込んでいました。物語・ジャンバルジャンの『ああ無』のそれです。仏教の「諸行無」が正しいと知ったのは、ずっと後のことでした(汗)。